第二十九 問答決着章(真言宗各派聯合法務所編纂局 1916)等より・・・37
(真言の信心とは、佛・法を信じ切る事)
問。信心の相、如何?
答。信心といふは佛を信じ、法を信ずる也。佛は大悲の故に妄語し給はず、法は仏説なるが故に誤なしと念ずる、これを信心といふ。・・大毘盧遮那成佛經疏卷第三入眞言門住心品之餘にいはく「深信とは梵音には捨攞駄といふ。是れ事により、人によるの信なり。長者の言を聞くに或は常情の表に出たり。但しこの人未だかって欺誑せざる故に即ち諦受して依行するが如し」(大毘盧遮那成佛經疏卷第三入眞言門住心品之餘三「深信者。此信。梵音捨攞駄。是依事依人之信。如聞長者之言。或出常情之表。但以是人未嘗欺誑故。即便諦受依行。」)又曰はく「先世に已に曾って善智識に親近するが故に三宝に縁深くして比量籌度すべからざる所なりと雖も即ちよく懸かに信ずるが故に深信といふ。」(大毘盧遮那成佛經疏卷第三入眞言門住心品之餘「又先世已曾親近善知識故。於三寶縁深。雖不可比量籌度處。即能懸信。故曰深信。」)と。
問。信心不退の相如何?
答。自ら分別して種々の難問を生ずることあらんに自ら消通すること能わず。或は異学他宗の人来たりて種々の難詰を設けて我が信ずる所は実に非ず、亦極に非ずと言ふことあらんに亦自ら消通すること能わず。この如く心動じて疑いを生ず、是を信心退堕の相とす。しかるに凡聖不二の理は法身自証の極説にして諸の戯論を超越せり。何ぞこの難を受くべけんや。我れ未だ無始の間隔を除かず、如来の善巧智を得ざるが故に一一に自他の難問を消通すること能わざれども精進修行する時はこれらの疑難自ずから融会せらるべしとて決定諦信して安住不動なる、これすなわち信心不退の相なり。
問。如何なる人かこの如くの信心を生ずることを得るや?
答。貴賤道俗男女を問わず、ただ宿殖深厚の者はこの法に遇うことを得て能く信心を生ず。宿殖微劣の者はこの法に遇うことを得ず。設ひ遇ふとも信心を生ずること難し。能く信心する者は久しからずして成仏すべし。信心を生ぜざる者は成仏は尚はるかなり。摂真実経に云はく「この秘密の法は得難し、遇ひ難し、設ひ遇ふことを得るも信心を生じ難し。汝ら大衆無量劫に於いて積劫累徳して今この法を得たり。もしこの法に遇はば久しからずして無上菩提を成ずべし」(諸佛境界攝眞實經卷下金剛界外供養品第五「此祕密法難得難遇。設使得遇信心難生。汝等大衆於無量劫。積功累徳今得是法。若遇是法。不久當坐菩提樹下金剛寶座。」)
問。真言の菩提心は凡聖不二の理を信じて無上の仏果を期するにありといふこと既に承りぬ。しかるに凡聖不二の理は深玄微妙なり。吾等愚鈍劣慧にして解すること能わず。解すること能わざるが故に信ずること能わず、然らば吾等が如きものは終に真言の機根には非ざるか?
答。凡聖不二の理は法身内証の境界にして凡夫の情識よく及ぶところにあらざるが故に解してしかる後に信ぜんと思はば智者・学者と雖も終に信ずる時なかるべし。信じて修する時は一文不知の人と雖も漸く解を得て終に悟入することを得べし。大疏一に云はく「釈論にまたいわく仏法の大海は信を能入とす、梵天王の転法輪を請ぜし時に佛、偈を説きて言ふがごとし。我今甘露味門を開かん。若し信を生ずる者あらば歓喜を得ん」(大毘盧遮那成佛經疏卷第一入眞言門住心品第一「釋論亦云。佛法大海信爲能入。如梵天王請轉法輪時。佛説偈言。我今開甘露味門。若有生信者得歡喜此偈中。不言施戒多聞忍進禪慧人能得歡喜。獨説信人。佛意如是。我第一甚深法微妙。無量無數不可思議。不動不倚不著無所得法。非一切智人則不能解。故以信力爲初。非由慧等而能初入佛法。」)と。
問。解せざれども信ずといはばこの信、迷信に非ずや?
答。信心の邪正は所信の境による。境が邪なる時は信は邪なり。境正しきときは信も亦正なり。しかるに凡聖不二の理は仏智の所照にして諸法法爾の性徳なり。この理すでに正なるが故にこの理に依正して起こる所の信また正なり。
問。若し解せざれども信ずと云はば説教を聴聞し経論を学習して解を求めること全く無用と言ふべし、如何?
答。若し未発心の者はこれらを因縁として秘密の法門において渇仰の心を生じ遂に阿闍梨の開示を蒙りて発心すること得べし。若し己発心の人はこれらを因縁として信心倍増し観解明了なることを得べし。聴法学問甚だ必要なり。
問。信じて修すれば一文不知の人と雖も悟入すと言へり。学問を無用とするに非ずや?
答。(博学多門の人)阿闍梨の開示を蒙る時、博学多門なるが故に即座に深く信解して頓に悟入するものあり。或は一文不知なれども即座に深く信解して悟入する者あり。或は一文不知なるが故に信解なほ浅く聴法学問の縁を待ちて信解倍増して遂に悟入する者あり。宿善不同にして機根非一なるが故也。なんぞ一概に論ずることを得んや。此の故に一切の人皆、学問を要す言ふべからず。亦一切の人、皆学問を要せずと言ふべからず。多聞の人、信解倍増する事聴法学問の縁による。之を無用とすべけんや。