福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

地蔵菩薩三国霊験記 4/14巻の10/13

2024-07-23 | 先祖供養

地蔵菩薩三国霊験記 4/14巻の10/13

十、檀那を葬り恥を隠し給ふ事。

伊勢の國蓋見の浦の傍に北条新左衛門頼房と云者あり。窮乏(きはめてとぼし)かりけれども外様の躰をつくろひて他行の折角は他の人馬を借用てぞありける。されば家居も尋常に栖成し、つれつ゛れの器具も全からざれども有る顔にぞ行ひける。如是の人なれば為さざる事をもあるめかしく云ひなし、出入りの者に褒美なんど得さすべきにのぞむでは形の如く弱氣なくぞもてなしける。女房は遠方の旅人にて無縁の者なり。されども容貌美しく心も中々やさしかりき。何なる前世の報にや夫婦となりて俱に貧道に落ち入りけるほどに生平心に叶はぬ事ばかりなれば、其の折々は手を掬んで南無地蔵菩薩と観念しけり。或時僧の来りて一宿を請玉ふに夫は貧をはばかりて痛みしに、女房許諾仕りて家の貧しき事御耻箇敷く侍るめれども御僧の事なれば明かせ玉へとぞ申しける。僧の云く、是因果の然らしむるところなり。全く現の所為にあらず。耻と思召給ふな。前世慳貪なる因によりて今生に貧乏に生ず。されば如是の人をも地蔵菩薩の本願によりて抜苦與樂せしめ玉ふと説法してきかせける。女房殊勝の事に思ふて、これより地蔵信仰の行人とぞなりけり。さるほどに頼房人病を受けて打ち伏しけるが宿縁つきてやありけん終に死にけり。女房泣き悲しみけれども詮方無く、葬るべきやうもなし。元より尊ける地蔵の像を死人の枕本に立申し、いかがなりゆく事ぞと悲しみながらに宝号を口唱し、過去の拙きありさま、今亦死後のほど免に角にぞたのみける。其の日も漸く暮れて夜半の時ばかりに燈の光幽かにいよいよ心をいたましむる折節、何人やらん来りて門を叩く音しければ、女房立ち出でて、誰人にて渡らせ玉ふと問へば、いや苦しからず、無縁の僧なるが宿をかりかね侍るが今夜一夜の宿を借し玉はばまことに大善根にもなり侍らむとぞ申しける。女房急ぎ門をひらき御宿は申しつべけれども、是の如くのありさまにて侍るなり。されば頼み申すとては地蔵の尊像ならではなく侍ると云ふも果さず泣き入りぬ。御僧は聞召し是非なき事に侍るものか、さてにも争(いか)で葬り給はぬとの玉へば、女の云く、さりとては御はずかしくあれども元来貧家に候へば葬る方便なく、女の身にてあるなれば案じ煩ひ奉るとぞ申す。僧の云く、佛は未来を導き給ふことなれば何の乏しきことあるべからず。亦斯の如く野邊の送りなんどは僧の欲するところなりと甲斐甲斐敷くも取り行ひ、棺を肩にかけ玉ひ平生の事のさま見る目も沙流(さすが)はずかしくをぼすらんと夜中に野外に送り給ふ。其の暁、暇を乞ふて出て玉ふに女房あまりの忝さに、何にても布施し奉りたく候へども御覧の如くの在様なりせめて夜明けて御立あれとぞ申す。旅には急ぐならひにこそあれとて追いかけ申せども引き切て御止りなければ詮無くこそ覚へけるが御手に持玉へる杖をひかへ奉るほどに打ち捨てきえうせ玉ふ如くにありしが其の御杖を見るに錫杖にて有りける。女房是を見て引き止め奉る事のあさましさよと厨子の中に安置しまいらせけり。然るに不思議や年来信じ奉る地蔵尊の錫杖ましまさず。能々見奉れば本尊の錫杖疑ひなし。且亦折角雨降りけるに御足泥にならせ給ふ。頼房庸(つね)に信じ申し、女房も一心に念誦しける徳の顕れて現に佛の加被を得たり。現の益是の如し。後生善所疑無くをぼゆ。

引証。

本願經に云く、若し未来世に諸の人等衣食不足乃至地蔵の名を聞き、地蔵の形を見て至心に恭敬し念じて万遍に満る有らば、是の諸の不如意の事漸漸に消滅して即ち安楽を得て衣食豊饒し乃至睡夢の中も悉く皆安楽ならん等云々(地藏菩薩本願經・見聞利益品第十二「若未來世有諸人等。衣食不足求者乖願。或多病疾或多凶衰。家宅不安眷屬分散。或諸横事多來忤身。睡夢之間多有驚怖。如是人等聞地藏名見地藏形。至心恭敬念滿萬遍。是諸不如意事漸漸消滅。即得安樂衣食豐溢。乃至於睡夢中悉皆安樂」)。

 

 

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