「高野春秋」「(承元四年)冬十一月十八日、後鳥羽院に於いて天災御祈りを奉為。覚基検校(注1)孔雀経御修行法を勤行、大阿闍梨後高御(二品新皇道法、注2)護摩師(道尊大僧正)伴僧護加持等、常格の如し。検校は山内不出の法と雖も公請故に制限せず。
廿五日結願。今般悉地勧賞の為に高野山検校永代法橋上人位宣旨。後高御の御執奏に依る也。考。九月より慧星出現、長さ三尺餘、覚基天変を祈り効験を得る。但尺為日月蝕時の祈り、曇りを以て功となる也。」
(注1)覚基検校は和泉山代県の人。高野山蓮金院理賢に中院の灌頂を受け、醍醐賢海座主に覚濟の法統を継ぎ、南都北嶺に学び、高野山蓮上院に住し高野山三十六世検校。承元四年後鳥羽上皇は師を仙洞に召して孔雀経法を修せしめ効験あり。建保五年七月二十五日蓮上院に寂す。世壽八十五。
(注2)「後高野御室道法」のこと。