日本の婦道
石頭大師の語をかりていへば男女は要するに同一『霊源』の二支派である。(注・・石頭は「参洞契」で、「竺土大仙(ちくどだいせん)の心、東西密に相附す。 人根に利鈍あり、道に南北の祖なし。 霊源明に皓潔たり。 支派暗に流注す。 事を執するも元これ迷い、 理に契うも亦悟にあらず。(お釈迦に遡る霊妙な禅の水源は透明であるが、流れの末は分かれて暗い。 分かれた後の瑣末な事柄を追うと本源を見失って迷うぞ。) 」といいました)
いうまでもなく支派は霊源の発展であり,完成であるから人に於いてもまた男女あることによって一入豊かな人間味を感ずる。随って男がますます男性的であり、女が益々女性的であればあるほど人間の妙味は尽くるところを知らない。これに反して男性が女性化し、女性が男性化して互いに似て非なる灰色の人間に成るということはこの世のなかに最も耐え難い荒涼のひとつである。それはまさしく人間といふ「生」の衰減を現わすにほかならない。・・以外に多くの教養ある婦人が、人間の価値を知識や地位や財産や手腕にもとめている。・・神秘家の言葉をかりると、そふいう婦人はCogitation仮見、にとどまってMeditation内観も、Contemplation中観もない。ゆえに到底真の人格価値を悟ることができないのである。真の人格価値はやはり至純なる内生に待たねばならぬ。純真な女性であって始めて大丈夫を恋するであろう。男の意気のわからぬ女にまことの恋のあろうはずはない。・・今の教育のある士女は私の目にはあまりに慎ましさがないとおもふ。進退坐臥ともに、ぴたりと身体に構のある人にめったに出会わない。みなぐにゃぐにゃと四肢五体に締まりなく運動している。べたべたとだらしない歩き方や、情欲に濁った妖艶な眼、軽薄を暴露した才気、娼婦の様な嬌態、是のごとき生活から生まれる諸の思想は皆まことではない。(思想どころかその子共も周囲も大変です)
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