ロゴスの覚醒と自己超越は、ほぼ同義語であるといってよい。
いずれにせよ、(ロゴセラピーがめざすのは)、自己超越なのである。自分を忘れることこそ、ロゴスという「本当の自分」と一体化する道であり、空虚感を満たす「本当の幸福」をつかむ道だからである。
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この世界の、この人生の究極の意味は、結局は何か。
究極の意味(フランクルはそれを「超意味」という)は人間には決して知ることはできない。・・
超意味とはロゴスのことであり、ロゴスは私たち人間の本質であるから、超意味を把握するとは、要するにロゴスと一体化し、ロゴスになること、換言すれば「本質的な自分自身」になることである。そうなったとき、人は自らを意識することはない。
完全に根源的な"自分自身"であるとき、精神は自分自身に対して無意識である。
なぜなら、ロゴスは愛だからである。愛とは自他の区別なき一体感のことだ。そこに「自分」は存在しない。つまり自己超越している。したがって、ロゴスそのものが自らを意識していないことになる。
・・・超意味と自己超越と愛とは、すべて同じことなのだ。それらは異なった側面からロゴスを表現しているに過ぎない。
人間が、自らの存在と生きる意味に疑問を投げかけるのは、結局のところ、自分自身が本質的な自分(ロゴス)とかけ離れているからである。