玉城康四郎、「瞑想と経験」から
「業はいろいろに説かれているがその実態をとらえることはむつかしい。業とはkarmanである。『為す』という動詞から転化した名詞である。行為、作用、活動などの意味から転じて仕事、義務、結果、宗教的行事まで含まれている。到底ほかのことばに翻訳することはできない。西洋の哲学者もいろいろ苦心してみたが成功せず、karmanがそのまま現代のヨーロッパ語になっている。
業は非常に意味が広い。・・自然現象、社会現象から心内の働きまで尽くされている。そうすると世界のありとあらゆるものが業でないものはないということになろう。
これを大別すると共業と不共業になる。共業は集団社会において行動を共にすることである。たとえば職場において協同作業をするとか一地方が地震や水害に襲われるということは共業である。つまり運命を共にすることである。
これに対して不共業は個体の業である。自分一人が独立に考え行動し、ただ一人で自分の運命を引き受けることである。
ところで以上は表業といわれるものである。とにかく現れているものである。それが心内のうごきであっても心の作用として表れているから表業である。
これに対して無表業というのがある。それは現れてない業である。・・われわれが経験したこと、考えたこと、行動したこと、語ったことはすべてその果報が自分の人格の基盤に一種の力となって残る。それを無表業というのである。作用としては現れてないが、潜勢的な力であり、この業は重大である。・・
現実の私の実態は無数の生の繰り返しにおける無限の時間の間に積み重ねられた無表業の結果である。この地球で生きているから私の不共業は密接に共業と交差しており、事態は一層複雑である。わたしの全人格を形成している無表業には、無限の時間の共業、不共業が畳み込まれている。・・(玉城康四郎、「瞑想と経験」)」
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