大師と南円堂
・「弘法大師行状絵巻」には「円堂鎮壇」として、「昔、大職冠鎌子、奉公の労によりて、藤原の姓を賜り、内大臣に拝任して,永く摂籙の臣たり。嫡男左大臣不比等、興福寺を建立して氏寺とせり。その後年序漸く移り、藤氏衰え廃れて殆ど他氏に移らんとす。ここに閑院左丞相冬嗣公、大師と師壇の契りあさからざるによりて、藤氏の繁栄を祈らん為に弘仁四年、興福寺の中に勝地を択び点じて、八角の円堂を建て、不空羂索の像を据え奉りて、修行持念したまへり。今の南円堂是なり。大師則ち鎮壇を行い給いし時、壇を築ける人夫の中に,異相の老人ありて詠じていわく、「補陀落の南の岸に堂立てて、今ぞ栄えん北の藤波」。これ春日大明神形をやつしきたまひて家門の繁栄すべきことを告げたまひしなり。それよりこのかた藤氏の執柄、世を重ねて、今に至る迄たゆることなし。閑院丞相帰佛の志いよいよ高く、・・一つの校舎を建てられ、・・永く大師に奉れり。かの給孤長者の沙金を敷きしに誠に等しく、将軍太子の林泉を捨てし例におなじ。大師この精室を綜芸種智院となずけ・・」
・「源平盛衰記二十四」に「南円堂と申は、八角宝形の伽藍也。丈六不空羂索観音を安置せり。此観音と申は、長岡右大臣内麿の藤氏の変徴を歎て、弘法大師に誂て造給へる霊像也。仏をば造て堂をば立給はで薨給ひたりけるを、先考の志願を遂んとて、閑院大臣冬嗣公の、弘仁四年丁酉 御堂の壇を築れしに、春日大明神老翁と現じて匹夫の中に相交り、土を運び給ひつゝ一首の御詠あり。
補陀落の南の岸に堂たてて北の藤なみ今ぞ栄ゆる
と。補陀落山と申は、観音の浄土にて八角山也。彼山には藤並ときはに有しとか。件の山を表して八角には造けり。北の藤並と申は、淡海公の御子に、南家、北家、式家、京家とて四人の公達御座けり。何れも藤氏なれ共、二男にて北家、房前の御末の繁昌し給ふべきの歌也。弘法大師は来て鎮壇の法を被行。此堂供養の日、他性の人六人まで失しかば、代々の御幸にも源氏は不向砌也。」
・「大鏡[一五六]」に 冬嗣が南円堂を建立し北家一族が栄えたとあります。
「 鎌足の御代より栄えひろごりたまへる・御末々やうやううせたまひて、この冬嗣のにはどは無下に心ほそくなりたまへりし。その時は、源氏のみぞ、さまざま大臣・公卿にておはせし。それに、この大臣なむ南円堂を建てて、丈六の不空願桐索観音を据ゑたてまつりたまふ。
さて、やがて不空羅索経一千巻供養じたまへり。今にその経ありつつ、藤氏の人々とりて守りにしあひたまへり。その仏経の力にこそ侍るめれ、また栄えて、帝の御後見今に絶えず、末々せさせたまふめるは。その供養の日ぞかし、こと姓の上達部(かんだちめ)あまた、日のうちにうせたまひにければ、まことにや、人々申すめり。
一、冬嗣のおとどの御太郎、長良(ながら)の中納言は、贈太政大臣。
一、長良のおとどの御三郎、基経のおとどは、太政大臣までなりたまへり。
一、基経のおとどの御四郎、忠平のおとどは、太政大臣までなりたまへり。
一、忠平のおとどの御ニ郎、師輔のおとどは、右大臣までなりたまへり。
一、師輔のおとどの御三郎、兼家のおとど、太政大臣まで。
一、兼家のおとどの御五郎、道長のおとど、太政大臣まで。
一、道長のおとどの御太郎、ただいまの関白左大臣頼通のおとど、これにおはします。
この殿の御子の、今までおはしまさざりつるこそ、いと不便に侍りつるを、この若君の生れたまひつる、いとかしこきことなり。母は申さぬことなれど、これはいとやむごとなくさへおはするこそ。故左兵衛督(さひようのかみ)は、人柄こそ、いとしも思はれたまはざりしかど、もとの貴人(あてびと)におはするに、また、かく世をひびかす御孫の出でおはしましたる、なき後にもいとよし。七夜のことは、入道殿せさせたまへるに、つかはしける 年を経て待ちつる松の若枝にうれしくあへる春のみどりご帝(みかど)・東宮(とうぐう)をはなちたてまつりては、これこそ孫(むまご)の長(をさ)とて、やがて御童名(わらはな)を長君(をさぎみ)とつけたてまつらせたまふ。この四家の君たち、昔も今もあまたおはしますなかに、道絶えずすぐれたまへるは、かくなり。」