以前、91歳で死去した義理の叔母の葬儀に出たことがあります。遠隔地でしたが動けない継母にかわって私が葬儀にでたのです。葬儀と言ってもわずか数人の家族葬でした。しかし長年会ってなかった義理の叔父が施設から車椅子で参加してきたので十数年ぶりに会えました。懐かしくて涙が出ました。
いままで無数の葬儀に参列してきましたが、いずれの葬儀でも死者は残されたものに対して、人生とは何かとか、あの世や霊界の存在を考えさせたりさせてくれます。そしてどの葬儀でも懐かしい人に巡り合えます。
こうして故人が近親者の場合は、とくに測り知れない功徳を死者から受け取ることが多いのです。
私の場合も若いときに近親者を亡くしていますが、おかげでお大師様の信仰の道に導かれました。そしてお大師様に助けていただき無事俗世の仕事を全うしたうえに僧侶の道にも入ることができました。すべてこの近親者の導きによるものです。霊界からの死者の導きには絶大なものがあると自分の人生を振り返っても改めてしみじみと思わせられるこの頃です。
この意味で、
残されたものは死者のそういう思いを敏感に感じ取らねばなりません。鈍感なままで葬儀や法事を終えるのは死者のそうした「生きているものをなんとかして助けてやろう」という願いを踏みにじるものです。死者が何をねがっているのかよくよく心を澄ませて感じ取る必要があります、それが死者への供養です。また法事等の先祖供養は死者へのお礼としても疎かにはできません。四国遍路では思いつく限りの人を供養しましたし、その後は毎晩先祖や有縁の方を思い出し一体ずつに光明真言をあげています。年と共にその数は増える一方ですが・・・。
「霊界通信」(スエデンボルグ)では霊界の叔父の証言として
「供養をしてくれたことは霊界で生前のあらゆる行為が眼前に映し出され身の置き所もないほど悩みぬいていた自分を一条の光と共に救うこととなった。自分の前に供養している人々のぎっしり集う寺院があらわれ自分を悩ませていた夢魔幻影が消えた」と出てきます。中阿含経にも「祠祀諸天。祭餟先祖。及布施沙門梵志。爲後生天而得長壽得樂果報」とありますし盂蘭盆経も先祖供養のお経です。初期仏教以来先祖供養は大切なこととされてきているのです。
当然供養はそういう死者を供養して助ける面もありますが、死者はむしろ「できるだけこの世に残された者を助けてやろう」というきもち、さらに言えば「衆生無辺誓願度」の気持ちが強くなるのではないかといままでの自分の例からは思います。残された者はこういう死者の思いに応える意味でも供養が大切と思うこの頃です。
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