今日8日は奈良西大寺の大茶盛です。西大寺は奈良朝では南都七大寺に数えられ壮大な伽藍を誇るも、平安時代に衰退、鎌倉時代に興正菩薩叡尊によって復興されています。
西大寺のホームページです。「寺伝によりますと、延応元年(1239)年1月16日に叡尊上人が八幡神社(正式には「西大寺八幡神社」。叡尊上人が神像を造立し建立。ご祭神、気長足姫命・誉田別命・玉依姫命)に献茶した余服を民衆に振る舞ったことに由来する伝統行事です。「戒律復興」をめざした叡尊上人が不飲酒戒の実践として酒盛の代わりに茶盛としたことと、「民衆救済」の一貫として当時は高価な薬と認識されていた茶を民衆に施すという医療・福祉の実践という二つの意義によって、八百年近く連綿と受け継がれてきた宗教的茶儀であります。( さらに戒律復興の奥にある「一味和合」の意味合いもある、といいます)。」
叡尊菩薩は私の大変尊敬する懐かしい高僧です。戒律を復興するとともに、伊勢神宮、石清水八幡等へ祈願し、蒙古襲来を破ったお方だからです。文永10年(1273年)には蒙古襲来(元寇)に際して伊勢神宮に参籠し大般若経を転読。
文永11年(1274年)蒙古襲来に際して四天王寺で亀山天皇の行幸を得て百座仁王会。
文永12年・建治元年(1275年)弘安3年(1280年)伊勢神宮参籠。
弘安4年(1281年)閏月1日蒙古襲来に際して石清水八幡宮で尊勝法修法、一切経転読。同日蒙古の船みな転覆。
(『律苑僧宝伝』にはこのときのの興正菩薩叡尊の祈祷がでています。
男山八幡宮で仁王会を開き、愛染明王法を修したとき、八幡宮の中から声がして「上人が外嫡を降さんがため大法を勤修するので吾まさに祐佐すべし。」と言い終わって一筋の光が社殿から西に向かって発したのち大嵐となり、九州では蒙古の兵船数万隻が沈んだ、とあります。
(『律苑僧宝伝』(近江國東方山安養寺の中興開山戒山慧堅(一六四九‐一七〇四)が、中國、日本における古今持律の大徳三百六十余人の伝記を編集したもの)巻第十二
「南都西大寺興正菩薩傳・・・弘安二年秋七月、蒙古兵船大宰府に至る。後宇多帝上邦侵逼を慮り、すなわち百官を集め、其の事を議す。僉(せん)して曰く「佛法力によらずば伏べからず。」ここにおいて師(興正菩薩)に勅す。師勅を奉じて教興寺に屆き、衆を集め、仁王会を建ち、兼ねて千手千眼経を講ず。神妙章句外国怨敵即自降伏各政治國土に還るに至るようにと。師之を読むこと三度に至る。時に千手大士の像より大光明を放ち、四天王動くこと生身のごとし。満座の僧俗このため驚嘆す。また比丘八百余人を率いて、城州男山八幡宮にいたり、七日間の仁王会を開き、及び愛染明王法を修す。期満日にあたり、山岳揺動、殿の扉自ずから八宇に開く。殿中に声あり。曰く。上人外族を降さんがため大法を勤修す。吾まさに祐佐すべし。言い終わって一箭自ずから殿中より出で光を放って西に去る。その響き雷の如し。尋ねれば素旗三首また殿より出図。一には「妙法蓮華経」の五字あり。一には「大般涅槃経」の五字あり。一には「唯識三十頌」の五字あり。字字におのおの金光を放ちまた西をさして去り、にわかに
猛風大起し電砕け雷奔る。大雨河を傾ける。ここにおいて在会の僧俗争って未曾有のことなりと嘆く。このときにあたり、西海に波二十余丈に騰す。兵船数万一時に没す。宇佐大神託して曰く、西大思円上人(興正菩薩)国家のため禳災を欲し、男山に就いて法会を開く。これにより、六六州諸の神祇みな大宰府にいたる。今夜子の刻まさに兵船覆滅のときなり。師の道力かくの如し。・・・七年夏四月帝・・勅して(興正菩薩が)輿にのりて禁中にいるを許す。・・・」))
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