観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・22/27
六、観音罪人の苦に代わり玉ふ事。法華傳に云ふ、修行者のありしが越中の立山に参り地獄廻をする時、或岩の上に女人一人居たり。修行者是を見ておそろしく思處に此の女のいふやうは我は近江國がもうふの郡の佛師の娘なり。父が佛を作て我を養たりし過によって地獄の落ちて有と語るなり。修行者の云様は其れならばなにとて心安げに地獄を出てそこに居るやと云へば女の云やうは今日は十八日なり。我娑婆に有る時十八日には観音へ参り観音經を讀故に今日は何つも観音の苦に代て地獄に入り玉ふゆへに我は心安く出て居たりと云なり(今昔物語集巻14・修行僧至越中立山会小女語 第七にあり)。
「眞觀清淨觀 廣大智慧觀 悲觀及慈觀 常願常瞻仰」此の文に付て五観五音(五観のうちの「真観」から五音のうちの「妙音」、「清浄観」から「梵音」、「広大智慧観」から「観世音」、「悲観」から「海潮音」、「慈観」から「勝彼世間音」が生まれる)と云事あり。五観とは今「真観清浄」等なり。此の五観は要を取れば空假中の三観也。甫に云、真観といふは空観、清浄観とは入假無染即ち假観也。「広大智慧観」は即中道也。謂く、中諦無邊の故に廣大也。(觀音義疏記卷第四「眞觀空也。清淨觀假也。假從空得無見思染。故名清淨。又空唯自淨假令他淨。故名清淨。又不思議假三觀具足離三惑染。故名清淨。廣大智慧觀中也。雙遮雙照無偏無待即平等大慧也」)。真観とは三観の中の空観也。其の故は諸法は無自性にして實躰無きと見る處が空観なれば真観也。是即空諦の観と云也。さて清浄観とは假観なり。而るに假観と云は一切万法は皆隨縁真如の功徳なれば柳は緑、花は紅の色色なるも畜類の振る舞いも唯是法尒自然の法義也と見るを假観と云なり。凢夫は有相執着心に住して一切の諸法をば実生実滅と見る故に不浄なり。さて菩薩は隨縁真如の功徳と見玉ふ故に清浄也。されば入假不染と釈するは此の意也。「廣大智慧観」とは中道観也。謂く中諦無邊故云廣大の釋に聞へたり。さて「悲観及慈観」とは大悲抜苦大慈與樂の義也。而して観世音とは三観成就の徳名也。さるに依て一心三観の内証より立て大悲の心を以て一切衆生の苦を救ふ處を悲観といふなり。さて三諦法界の内証より立て大慈の心に住して樂を衆生に與ふ處を慈と云也。故に衆生も常に瞻仰し給ふべしと説く也。瞻仰とは下から見上奉る事也。山王院の大師(智証大師円珍)は此の五観を真言の五智の如来と釈し給へり。此の五観を以て六観音に当る時は廣大観智慧観を開きて二とするなり。真観とは十一面、清浄観は如意輪、廣大観は准礼、智恵観はは馬頭、悲観は千手及び慈観は聖観音なり。此の六観音は六字章句陀羅尼經に出たり。其の名は常に替はるなり。大悲観音、千手大慈観音、聖観、大光普照観音、十一面観音、十一面大梵深遠観音、如意輪、天人丈夫観音、准胝獅子無畏観音、馬頭之に付、六観音を六道に対する事恵心の頌に云、千手は地獄、聖は餓鬼、馬頭は畜生、十一面は修羅、准胝は人道、如意輪は天なり。是は六観音を六道に配する事也(傳受集 寛信撰「六觀音異名摩訶止觀文。大慈觀音聖觀音地獄道。大悲觀音千手餓鬼。大光普照十一面修羅道。師子無畏馬頭畜生。天人丈夫准胝人。大梵深遠如意輪天」)。
七観音(千手 ・馬頭 ・十一面・聖 ・如意輪・准胝 ・不空羂索 )八観音(小野流では如意輪・觀自在・得大勢・多羅・毘倶胝・白處・一髻羅刹・馬頭)十観音の不同あるなり。その躰同也。事に依て名を付け替るまでなり。十一面観音の事。第一頂上佛は面螺髪の形也。餘の十面は菩薩の形なり。前の三面は慈悲寂静の皃(貌)左の三面は忿怒の形なり。是は悪を作すものを見て対治せん為なり。右の三面は牙を上にあらはしたり。善根を修するものを讃るかたちなり。後ろの一面は笑ふかたちなり。善悪交雑して有る衆生を見て笑玉ふ。善を見て喜び笑ひ、悪を見てひうりて(ママ)笑ふなり。本躰の面は不笑不瞋善悪不二の義なり。さて螺髪形の頂上佛はいかなる佛ぞと云に過去の正法明如来を頂玉ふなり。是を対果形因と釈するなり。或は天の頂上佛面は薬師如来とも云なり。されば奈良の二月堂の板木に南無頂上佛面除疫病とほり付けたり。慈覚大師の釋は空假中の三諦を約して釈し玉ふなり。当所三面是中三諦、左の三面双非三諦、右の三面双照三諦、後ろの一面は獨一法界(大日如来)無可待なり。
十一面観音の事、過去遠昔千手光常住如来と云ふ佛出世し玉ふ。観音此の佛前に出て発願して云く、我に千手千眼現前せば一切衆生を度すべしと誓願し玉ふなり。而に誓願の如く千手千眼皆悉く具足し玉ふ故に其の名を千手観音と云なり(千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經「過去無量億劫。有佛出世。名曰千光王靜住如來。彼佛世尊憐念我故。及爲一切諸衆生故。説此廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼。以金色手摩我頂上作如是言。善男子汝當持此心呪。普爲未來惡世一切衆生作大利樂。我於是時始住初地。一聞此呪故超第八地。我時心歡喜故即發誓言。若我當來堪能利益安樂一切衆生者。令我即時身生千手千眼具足。發是願已。應時身上千手千眼悉皆具足」)。
其の千手の手の中に四十二手には或は合掌印を結び或は持物等あり。その餘の九百十八手は皆施無畏印也。さて掌の内に各々に目が一つ宛あれば千眼也。但又頂上に廿七のの顔あり。是も各々目あれば千眼には限らざるなり。一經の中に千手千眼因縁を説くて云、過去遠々の昔橋婆羅國に偏光童子と云人あり。父はわさ大臣と云ひ、母は寶人夫人と云なり。此の偏光童子三歳の時父に後れ五歳の時母に離れたり。八歳の時出家して後に父母の恩に報ん為に左の手の皮を肩より剥ぎて母の為に胎蔵界の大日を書き、右の手の皮を肩より剥ぎて父の為に金剛界の大日を書く。さて千の灯明千の香華を以て供養し玉ふなり。此の功徳に依りて定光佛の時千手千眼を得玉ふ也。千の手は香華の供養に依り、千眼は千の灯明の修因なり。此の事千手經に見へたり。千手観音を信ずる人は十五の悪滅し、十五の善を生ずと説く也(行林抄「持章句者。諸佛授手教淨土。誦總持者。善神運足。加守護。開大悲門。閉三惡戸。然五障器成丈夫體。滅十五惡死。得十五善生」)。智証大師千手經について一巻の疏を作り玉ふ也。彼に見えたり。天竺に一人比丘あり。或時人の家行くにその家屋鳴く牛有りけるが、逃げ走る也。是何事ぞと云に此の比丘は千手観音安置して常に信仰する也。故に其の家内に悪鬼邪神有るが此の比丘を見て逃げ走る也。是則ち千手を信ずる者は十五の悪を滅する也。是観音の威也。