福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)・・その71

2014-04-18 | 法話

第七一課 モダン極楽・モダン地獄


 地獄、極楽とは一応、私たちの心の状態を指します。心の経験する苦の世界、これが地獄であります。その反対なのが極楽であります。
 現代の人々が嘗める地獄苦で、昔の人と同じものもありましょうが、また昔の人の知らなかった新しいものもあります。 焦燥地獄、何となくいらいらして落付けぬ地獄です。虚無地獄、人生の何物にも張合いが持てなくなり虚無的ニヒリスチックな気持ちばかりに襲われる地獄であります。神経衰弱地獄、神経過敏地獄、脱力して馬鹿のようになってしまったり些細なことを針小棒大に感じて不安がちだったりする地獄であります。思想地獄、あまりに去来うつりかわりの速かな思想群に疲れる地獄であります。刺激地獄、次に次にと刺激を求めて行って飽くことを知らぬ地獄であります。流行地獄、流行を追って血眼の地獄であります。その他、生活問題、社会問題に関して世人が頭を悩ましている地獄はあまりに人が知り過ぎているものであります。
 一方、モダン極楽もないことはありません。便利極楽、器械文明が安価に普及されて便利になったことであります。例えば交通機関とかラジオのような。また、雑誌、新聞、書物等の出版が多くなり知識の需要を容易たやすく充たされるようなこと。家庭愛極楽、家庭というものが認められて来て、そこを中心に安楽境を作ろうとする傾向が多くなって来ました。設備極楽、いろいろの設備でだいぶ公衆慰安の目的のものが増えて来ました。生命安全極楽、昔から見ればどのくらい人の生命が保護されて来ているか判りません。一体、安楽というものは意識に上りにくく、苦痛の方は意識されやすいもので、極楽の方は拾い出しにくいのであります。故に古来、文学上の名篇も地獄的の心境を書く方に傑作が多く、極楽的のものは少いとされております。
 現代人の実感上、地獄感が多いか極楽感が多いかと言うと、勿論地獄感の方が多いと言う人が多いでありましょう。釈尊在世と同じく現実の条件として、致し方のないことであります。
 しかし、仏教では現実上の極楽必ずしも絶対のものでなく、地獄もまた絶対のものでないと説くのであります。因縁果の理法によって出来たものとすれば、その因と縁を突き止め、その善きを加え継ぐことによって極楽はいよいよ続き、地獄はその性しょうを失う。もし、悪あしきを加え続けばその反対となると説くのであります。その根本の性を無性と説き、その上に現るる因果の法は歴然であると説くのであります。この理法を信じ望のぞみを失わず、善を積み、悪を斥けて、一歩一歩に努力の満足を得つつ行く、これが真の意味の極楽浄土であります。渋い落付いた味の極楽であります。
(世界の人口は72億人弱ですが72億通りの地獄があります。一方極楽は一通りでしょう。不幸はそれを味わう人の心の数だけあり、幸せは誰しも同じ味わいで一通りです。しかしどんな地獄のどん底にいても必ず這い出られます。かの子がいうように全ては実体がないからです。その手段は「利他行」ではないかと思います。)
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