福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)・・その72

2014-04-19 | 法話

第七二課 さとり


「さとり」ということは、無限の宇宙生命と、有限の私たち個人の生命と、全く一つのものであることを、はっきり認識したその意識を指すので、禅家の方殊に臨済宗の方で、やかましく言う修業上の心境の段階を指します。さとった人は、この有限で生き死にする私たち個人の精神肉体が、取りも直さず永劫不滅えいごうふめつなるものの現れと知って、もはや人生上に煩悶するものもなく安心立命のその日その日を送れるというのであります。そこで、さとったところを「一生参学の大事畢おわれり」(生涯の修業の大目的が達せられたということ)とか、「桶底打破つうていたは」(迷いの桶の底を抜くということ)とか言って、ひとまず人生の疑問が片付いた形容をいたします。
 ところが、このさとりについてはいろいろと議論があります。さとりは、その人の生涯に一度あるだけだとするのと、度々あるものだとするのと、それから、さとりは不必要だとするのとであります。
 一度あるだけだとする側の主張は、兎に角今まで私たち有限的な個人の建前で生きて来たものを、無限的な存在の現れとして改めて自覚し直すのだから、人生の歩みとして全然方向転換である。廻れ右ほどにも方向を変えたのだ。だから真のさとりは、一度だけだというのであります。日本曹洞禅の開祖道元禅師が支那の天童山に修業しておられたとき、師僧の如浄禅師が、「参禅は身心しんじん脱落なり」(禅の修業の目的は精神肉体の捉われから解き放たれることだとの意)と言われた言葉を聞いて、さとられたのを、たった一度の大悟と言って、よく例に引いて来ます。
 さとりは度々あるものとする側の主張は、元来人間の有限的な認識の力が無限的なものを認識して行くのだから一度で済むはずはない。何遍でもあるはずだ。それはちょうど、竹の節を抜いて行くようなもので、節の一抜き一抜きに人生観は広げられて行くと説くのであります。この例としては、徳川時代の臨済禅の傑僧白隠禅師がよく引合いに出されます。禅師は信州飯山で正受老人の指導によってさとられた以外、大悟小悟その数を知らずと自記されております。
 さとりは全然不必要だと主張するのは、鎌倉時代に起った新興仏教の法然、親鸞、日蓮等の諸宗祖の見解で、これを述べる前に、曹洞禅の中のあるものの説くさとり不必要論を紹介しますと、さとれるようなさとりは小さなものだ。無限の生命をさとるのは、ただ黙ってそれに従って行くところにある。今さらそれを認識するとか、しないとか言うのは小さな問題だ。私たちは修業さえしていれば、さとろうと、さとるまいと、修業そのものが無限の生命上の歩みだ。こういうのであります。これは道元禅師の言われた修証しゅしょう不二(修業とさとりとは一つのものという意)の一種の解釈であります。
 ところで平安末期に起った法然上人の浄土宗、鎌倉期の日蓮宗の日蓮聖人、浄土真宗の親鸞聖人、いずれもさとり不必要論者であります。不必要ではないが、かく世の中が忙しくなって人間の心が刺激に攪かき擾みだされる時代に、さとろうとする修業なんかしている暇がないのだというのであります。その代りに信仰によってさとりと同価値の安心立命を得るがよいというのであります。ずっと前の平安朝時代から伝統が続いて来ている伝教大師の天台宗、弘法大師の真言密教は、さとりの修業と信仰の安心立命と兼用であります。
 ざっと、こんなふうな具合で、修業によってさとろうとする側と、信仰によって安心立命を得ようとする側と二派あります――もっともさとり主義の宗派でも信仰をおろそかにするというわけではありません――それで、人々の好みに従っていずれの道を選ぶとも自由ですが、大体の上から言いますと、すでに私たちが宇宙生命の一つの現れであり、その自覚に立ち得る素質が私たちの精神肉体の中に、生れながらに封じ込められてある。そしてその種子は折に触れ、時に乗じて天地からも哺み育てられ、自らも発芽成長しようと努めている。この原理に立たない大乗仏教はないのであります。それから私たち現実上の日常生活が、いちいちこの上もない修業であると説かない大乗仏教もないのであります。故に、この生命弘通の大本を信じ、それからこの世の生活の道場の中で、現実を相手に、実地のさとりを開いて行く。実地のさとりとは、私たちが宇宙の生命の働きのごとく、何物にも自由に応じられ、何事にもみごとに処理して行ける完全無欠の人格者になることを目指して刻々に経験を積んで行くことであります。誠に意義のある楽しい信行(信仰と修業)であります。
 もし、各宗各派の教義に殉したがうとしても、この基礎知識の了解があれば、大変楽であろうと思います。(「青い鳥」という小説があります。兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところの鳥籠の中にいたという物語です。悟りというのも「青い鳥」ではないかと思うときがあります。非日常にあると思って種種の修行、坐禅・読経・遍路しても見つからず、ある日、日常の自分の生活そのものの中にあるのだと気が付くのです。そもそも一度の覚りとか何度も覚るとかいう問題ではありません。生きていても死んでいても、今の一瞬一瞬が悟りということでしょう。全ての人はその意味で悟りを日々時々刻々と体験しているのです。)
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