福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本、岡本かの子・・その8

2014-02-14 | 法話

第八課 あまり放縦でも困る


 前述の方法とちょうど正反対の方面があります。何でも、あるがままがよいとして、食べたい放題、遊び放題、無理の言いたい放題、不義理のし放題――それを、また世間でも、磊落だとか無邪気だとか言って買い被り、苦笑しながらも黙って見ているようなことがあります。もし世の中が、あるがままがいいということになったら、人生は骨折りも努力もいりません。
 千の与四郎というのは茶道の名人、利休の幼名ですが、秋の庭の趣を添えるために、庭に落葉をひと散し落して置いたというのが彼の茶道の功名のはじめですが、これもはじめから木の葉の落ち散るままにして置いたというのではなしに、一旦庭を清潔きれいに掃き浄めた後、一つの見識を以て、あらためてひと散し木の葉を撒いたので、そこで芸術になりました。自然の落葉のままが風雅なら、どんな田舎家にも千家茶道宗家の看板は掲かけられましょう。まわりを刈り込んで、残すだけを残した髯と、無精髯とは鑑別みわけてやらねばなりません。人間がたった一人、この世の中に生れて来て、そして自然の中に生きて行くのなら、相手も自然、こっちも自然、それで気が合ってよろしいでしょうが、しかし、人間が二人となり三人となる以上、協調ということが生活上必要になって来ます。協調ということは折れ合うこと、折れ合うということはしたいことも相手に遠慮して差し控えるということです。程よく保ち合うということです。まして人間には、たった一人のときでも自分を完成し、周囲の自然を開拓しようとする意志は持って生れているのですから、その人間本来の意志に従わず、勝手気ままな外界の自然のありさまを手本にでも見習うような放縦な生活は、どうあっても「真理」の逆行です。この心得違いは、二千五百年のむかし、釈尊の活躍しておられた印度にもかなりあったと見え、十三外道げどう(仏教外の哲学、真理外の邪法)とか三十種外道とかいう中に入れて、その説伏ときふせに釈尊は非常に骨を折られました。自然じねん外道というのがそれです。
 よく浴衣ゆかたの模様などに、鎌の絵と、○わと、ぬの字を染め抜いてかまわぬと判じさせるのがありますが、模様としては元禄げんろくぶりの寛闊な趣を見せてなかなか面白いものですが、それを生活方針として世の中に持ち込まれたら、誰もかまわぬわけにはゆきますまい。
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