福聚講

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密教瞑想と他の瞑想法との違い

2022-12-04 | 法話

密教瞑想と他の瞑想法との違い
栂尾祥雲「密教思想と生活」には「真佛把握の方法」として密教の瑜伽観法と他の瞑想法の違いを書いています。
要約すれば「密教の観法は現象と真理、事物と心をそのまま一体として観ずる有相観法である。禅の単なる空寂を求める無相観法や、空寂を求める手段として物を思い浮かべる有相観法は物と心、事象と真理を分けて観ている。」ということです。
「密教思想と生活・真佛把握の方法」「密教の修法に當り最も緊要なことは、その密教精神の中核たる真佛、換言せば全一としての本當の我の當體を如何に把握するかということである。・・然らば如何にしてこの本當の我の自我の真相を・・体認しうるかといへば、・・一切を全的に具体的に処理する神秘的・直観的方法を以てするより他はないのである。その神秘的直観的方法を密教では瑜伽法とも三摩地法ともいひ、・・さればこそ不空三蔵は「真言法の中に於いてのみ即身成仏するがゆえにこの三摩地の法を説く。余経の中には闕して書せず」(大師の「即身成佛儀」に「龍猛菩薩の(金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三)菩提心論に、『真言法のなかにのみ即身成仏するが故に、是れ三摩地の法を説く。諸教のなかにおいて闕して書せず』と。是れ三摩地(の法)を説くとは、法身自証の三摩地なり。諸教とは他受用身所説の顕教なり。」とあり)とも説かれてゐるのである。
・・普通一般の瑜伽法や三摩地法がただ空寂を愛楽する方法に過ぎなのに反し、密教の瑜伽法は極めて積極的で必ずしも起心動念を恐れない。・・邪念妄念を制するに正念善念を以てし、・・一念堅持ということになる。
・・無念無想の空寂を愛楽する普通一般の瑜伽法・三摩地法を密教では阿婆頗娜迦(あさはなか)三摩地すなわち無識身定若しくは無動定といひ『金剛頂経』によると釈迦牟尼佛は六年苦行の後、この阿婆頗娜迦三摩地に入住したけれども本当の悟りを開くことができなかった。そこで秘密佛の驚覚開示を蒙り一念堅持の積極的有相観を修し初めてその悟りを開くことができたと言ふのである。(金剛頂経では「時に一切義成就菩薩(覚る前の釈迦)、一切如来の驚覚によりてすなわち阿婆頗娜迦(あさはなか・無動)三摩地より起ち、一切如来を禮してもうしてもうさく、『世尊、如来よ、我に教示したまへ、いかんが修行、いかんがこれ真実なるや』」・・・そしてこの後五相成身観をつぎつぎ展開していき最後に仏身円満で「一切如来また告げてもたまわく、『このゆえに摩訶薩よ。・・自身を佛形に観ず・・おん やたさらばたたぎゃた さたたかん(我は一切如来に同ず)』」とあります。この金剛頂経をうけて金剛界念誦次第の五相成身観では、通達菩提心、修菩提心、成金剛身、証金剛身、仏身円満という階梯を経ることになります。

かの不空三蔵の説くところによると「漸学大乗、すなわち通途大乗教のみでなく、小乗仏教でも、外道教でも大抵はこの阿婆頗娜迦(あさはなか・無動)三摩地を修するのである。その中、外道のそれは深くない。小乗教ではこれに入る事深く、これを究竟としている。漸学大乗ではまた妄念を除くためにこれに入る。しかるに頓入・頓悟を旨とする密教では決してこれに住せない。これこの定は空定であって一切の色塵を否定するが故である。これを密教の立場からする限り、一切の色塵はそのままに実相である。これを照らしこれを生かすところに密教の密教たる特質がある。これをおそれて空定を愛楽するが如きは全く正智の活用を知らぬ迷見である。・」(金剛頂瑜伽秘密心地法門義訣)・・・さらに達磨禅などでは「念を動ずれば即ち乖く」(黄檗山断際禅師の「傳心法要」)とか・・いって無念無想の空定を力説するけれども、善無畏三蔵の如きはこれを拒斥し「初学の人は多く起心念動をおそれて、いたずらに進求を絶ち、専ら無念をもって究竟としている、しかし念には不善念と善念との二種類があって、不善の妄念は勿論除かねばならぬけれども、善法の正念は決して滅すべきではない。」(無畏禅要)と誡めている。・・・善無畏三蔵は又「所作あるに随ってみな三昧(定)と相応す。花を献ずるときの如き、即ち花と三昧と相応し、その中の本尊、明了に現前す。若し香・燈・塗香・閼伽水等を奉るときの如き、また香と三昧乃至、香水と三昧と相応し、一々の本尊もまた随って現前す。かくのごとく一々の縁の中にみなこれ法界門に入りて、みな善知識を見る。旋転運用して理と相応す(大日経疏)」等と説かれている。これ花・香・灯明等の『事』をそのまま生命的の存在とし、「これが全一の宇宙法界であり、真佛である」と観ずる正念が相続して他の邪念・妄念を制し、自然に一念堅持の一境性の三昧に住するがゆえに、その正念が三昧と相続して観智となり、それが明瞭に対境を照らして本尊を現前せしむることになるのである。・・いずれにするもこの心を実にする一念堅持といふことに力点を置く関係上、その境地としてもただ空寂を対境とするするのでなく、月とか蓮華とか金剛杵とかいふような有形の事物を用ふるのが常である。(こういう有相観はウパニシャッド哲学や原始仏教にもあるが、こういうものはただ心を一境に集中せしめるための方便にすぎない、しかし密教の有相観は)事理不二、物心一如の見地よりその観境の事物そのものを直に生命的存在としそれを全一としての法身とし、法界とし、本当の我の姿として観ずるのでそこに極めて深奥なる密教教学の背景が潜んでいるのである。元来、心といひ、物といひ、事といひ、理といったところでそれは分かつべからざる具体的一如のものを暫く分析し抽象してかく考へるだけで全現象としての具体的真相ではない。本当の現実としては、これらの事・理、物・心が互ひに関連し結びあって一如としてのみ実存しているのである。
不空三蔵の門下の飛錫はこの物心一如の旨趣を示し「ただ心でもって衣を被たとか、飯をたべたと思ふだけでは決して飢えや寒さを凌ぐことができないやうに、事物に相応し融合しない心だけでは何事も成就するものではない。真言の瑜伽行に於いて観心とともに因縁の事相を捨てず常に香華を厳薦して六時にこれを廃せない所以もここにある。」「あまねく六塵三業を縁じてなほ妙願をおこし、仏の境界に入るに一々の縁起、如来を離れざるを悉く見ると名く。これはこれ円見にして眼によるにあらざるなり。故に『涅槃経』には『声聞のひとは 天眼あれどもことさらに肉眼と名く。大乗を学ぶものは肉眼ありていえどもすなはち佛眼と名く。』と説き(「大般涅槃経・如來性品」に「若知如來是常住者。如是之人雖有肉眼我説是等名爲天眼。」)、乃至、大地が水上に住するが如く池井を鑿ればすなわち水を得てそれを用ふるも、鑿らざるものはこれを見るによしなし。かくのごとく聖智の境界は一切の法に偏ず」(念仏三昧寶王論)と強調せられてゐるのである。

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