福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

成功者の先祖供養・・3

2019-06-10 | 先祖供養
成功者の先祖供養・・3
・新四国曼荼羅60番札所 閑慶院は岩崎家の菩提寺です。 明治の廃仏毀釈の折に廃寺になりかけたところ岩崎弥太郎の奔走で永平寺直末寺として再興、本堂・鐘楼堂も岩崎家より寄進を受け再建されています。
・住友家一族の菩提寺は「実相寺」(浄土宗:中央区上本町4丁目)、住友財閥第二代総理事の伊庭貞剛は「大事を決するときは住友家の墓前(実相寺)に額ずくを常とした」(「佛教的経営」・井上信一)とあります。
・原敬の先祖は、近江の戦国大名であった浅井長政の曾祖父の弟を始祖とする家系で、原家初代原政澄は、1633(寛永10)三代将軍家光の頃、南部家28代当主で盛岡藩主である南部重直に100石で召し抱えられたのが始まり。しかし三代原政親が、藩主廃立問題に連座して、1703(元禄16)年に家禄を没収の上追放された。この頃、菩提寺光台寺を頼ったが断られ、その紹介で大慈寺の世話を受けたとあります。後の原敬は生涯この恩を忘れず、大慈寺が1884(明治17)年の大火に見舞われて全焼した際には山門、本堂を寄進しています。
・土光敏夫は「私の履歴書」で「・・父の三十三回忌に当たる昭和46年(1971年)に、600平方メートルほどの母屋を大改築、日蓮宗の道場とした。両親が熱心な信者だったので、この道場を「経王殿」と名付け、毎月1日に、土光一族が集まり、お経をあげている。東京からは、家内や妹たちが毎回駆けつけている。・・」と自ら書いています。

・キャノン創始者吉田五郎は母譲りの熱心な観音信者で国産初のカメラをKWANONと名ずけていますが親孝行の意味もあったと思われます。  
・ 旧安田生命社長の竹村吉右衛門は母から観音様が守り本尊と聞かされ浅草寺の朝参会を作り、また仏教振興財団も作りました。宗家の鳥潟家は慶長年間(1600年代初め)の頃から続く旧家で徳川末期の建築の邸宅は鳥潟会館として残っており、その神棚、仏檀は座する者の襟と居ずまいを正させるとあります。先祖が拝みこんでいたと思われます。
・近江商人は浄土真宗の信仰によって育まれたとされます。西川産業・西川家の「年中諸事控」には、毎年二月八日には先祖の法要を行うとされ、同じく松居遊見(農業、生糸・麻布等の行商で巨万の富を築いた十八世紀の近江商人)は、「近江神崎郡志稿」に「東本願寺の徳龍に帰依し、常に法話を聞き随喜した・・遊見は仏教信者で其の信念は極めて堅固であった。・・朝夕の看経に正信偈を、一度の読み上げでは読み足らぬとて二度の三度も繰り返したことがあり、昼でも夜でも念仏を唱え所謂行住坐臥時と所を嫌わずの様であった。或る鼠賊が告白した口述中に,曽てこの家に入ろうと毎夜あたりに忍び窺うにいつも念仏声がして遂に這入られなかったということであった。」とあります。
・・伊藤忠の祖、伊藤忠兵衛は福岡萬行寺の七里恒順和上に帰依し、全ての店員に正信偈和讃と珠数を持たせ、毎朝店の仏前に正信偈を読誦し、店員を連れて津村別院に参拝し、店では毎月法話会を開催していたといいます。また蓮如上人を慕う酬徳会を設立しています。また忠兵衛の座右の銘は「商売は菩薩の業、商売道の尊さは売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」というものであったそうです。(「伊藤忠商事百年」、等)
  ・銀座三笠会館創始者谷善之丞の「わたしの理想とする人」(筑摩書房「現代を生きる心」)にはこうあります。「代々信仰の篤い家系であったが特に両親は先祖を大切にしたので 自然に仏教情操により育てられました。上京して倒産した友人の食堂を借金ごとひきうけることになりましたが、利息で金策もつき自殺を考えました。少年時代から座禅することができたので夜座禅しながら自殺の決意をつけようとしました。夏から秋もすぎ冬になり丁度12月の20日ごろでした。真夜中をすぎて夜明け近くになりました。銀座のほうから歌舞伎座の前にむかって1台の荷車がコトリコトリと音をたててまいります。座禅というものは無思無想で座っているのでありますからこの車の音が聞くとも無くわたしの頭に入りいつのまにかその車と一つになってその車の後押しをしてわたしがついていくよう感じでありました。そのうちはっと思いついたことがあります。そうだこの寒空の真夜中に車を曳いて生きている人があるんだ。死ぬ気でいきることだ。死ぬ気でいきるということだということを考え付いたとたんにわたしの胸の中にはっきりと生きる力がみちてくるのを私は感得いたしました。・・」とあります。これなども先祖のお導きです。
・出光佐三は神官の息子でもあり『日本人である以上、その血の祖である皇室を尊重するのは当然』と、社内セレモニー毎に出席者全員が皇居に遙拝し、 自らも「宗像大社」の氏子総代を生涯勤めたといいます。
・三井財閥の創始者は三井高利。母親(殊法尼)は厚い信仰心を持ち「客は皆佛性をもっており同じように尊いのだから相手により商いを変えてはならない」という考えから、「現銀掛け値なし」という新商法を始める。また呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆し、庶民も買える切り売りをして大成功する。高利は京都真如堂(天台宗)の大檀越となり、ここには高利夫妻の墓、越後屋奉公人2300人の総墓がある。三井が江戸に進出時には向島の三囲神社を守護神とし、越後屋の本店に分霊を奉祀した。今も三越本支店に分霊して三囲会が例祭をとりおこなっている。
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