乃木希典将軍は日露戦争のあと全国津々浦々に日露戦争の「忠魂碑」を建立されていますがこれは千葉県山武郡にある、乃木希典篆額、森鴎外撰の「日露戦役忠魂碑」です。鷗外は乃木将軍に私淑していたようですが共に忠魂碑を建立したのは初めてでしょう。
「陸軍大将正三位勲一等功一級男爵乃木希典篆額忠魂碑
明治三十七八年之役千葉県山武郡片貝村之民従軍于満州者一百五十有三人中、死傷者六人あり。而して三十九年王師凱旋従征兵士卒概皆還るを得。此の六人遂に帰へらず。村民之軍籍に居る者、其の有志の者若干人財を損て石を立て以てその名を不朽にせんと欲し、予に託して譔録を帰す。所謂六人とは後歩兵第二聯隊卒一人、歩兵第二第二聯隊卒五人、其等級勲氏名及び死状左の如し。曰、陸軍歩兵上等兵勲八等功七級古川真四郎、火傷死於魚鱗堡假繃帯所後備歩兵第二聯隊卒也。曰、陸軍歩兵一等卒八等功七級南部良平、戦傷於松樹山、死於東京予備病院渋谷分院。陸軍歩兵一等卒勲八等高橋彌正戦死於水師営大西溝。曰、陸軍歩兵一等勲八等内山伊三郎戦死於松樹山。曰、陸軍歩兵一等勲八等板倉喜三郎、戦傷於旅順死於大連兵站病院。曰、陸軍歩兵一等卒勲八等沼端小一郎、戦死於田義屯田附近並皆歩兵二聯隊卒也。予謂、此の六人は邦家に身を致し郷閭に其の迹炳を垂範す焉。彫章亮縷句して始顕を待つに非ず。故に率爾命筆直叙以て授け焉。
明治四十年二月下瀚
陸軍軍醫監従四位勲二等功三級 森林太郎撰
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