福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

山岡瑞円師「人格的生活を目指して」その2

2016-09-14 | 法話
(先に「仏様を拝むということは「懺悔」「随喜」、「勧請」、「菩提心」、「廻向」の五つからなります」といったが、まずこの「懺悔」とはどういうものかをのべると)
凡そ懺悔に自己的懺悔と大我的懺悔とがあります。自己的懺悔とは世間的な仕事の遂行上に起こる懺悔(道交法違反で捕まった時の懺悔のようなもの)です。
次の大我的懺悔がほんとうの懺悔です。私は世の中を恨んで恨みぬいて死んでやろうと思って10日食べずにじっとしていたことがあります。・・困窮のどん底におちていた私の心は僻みと恨みと腹立ちに燃えただれていたのです・・仏が人を救うなどそんなことがあるものか、私はいま困窮の余り、死に直面しているではないか、こんな苦しいときにも仏は私を救うてくれぬではないか、この世に神も仏もあるものか、それがお経にかいてあるなどと、そんなお経は人を誑かす架空の妄断談ではないか、こういふ煩悩の嵐が心の中で吹いて吹いて吹きすさんでいたのであります。しかしいくら恨んでも世の中はどうしようもありません、結局死んでやれ死を以て復習してやれと、最後の腹を決めましたが、さて私ごときが死んだとて悠久なる宇宙は微動だにもしません。一体誰に向かって死んでやれというのか。こうかんがえたとき刀折れ矢尽き世と戦う根気も失せて全く手も足も。でぬようになりました。結局貧乏と病気とで食えない境遇にあるのだから食わずに死能と考えました。

しかしこの『食えないから食えないままに死のう』という考えは現在の因縁境遇に絶対服従の態度です。・・私ごときが恨んでも世の中は針で突いたほどの変化もないのだ。もう一切の恨みはさらりと捨てた、このような運命を自分は本来持って生まれてきたのだから甘んじて受け従うしかない。食えないままに死んでいこうと考えた。そしてそれに絶対服従したのであります。そうすると奇態に敵がいなくなったのであります。それからはいくら敗れ障子がガタガタしても何ともない。いくら寺が破損し塵がたまっていてもそれもどうしようもない。借銭取りが来ても怖くない。最早やがて死ぬ気持ちだからです。あいつがわるい、こいつがわるいという気持ちがもはや私の心から消えてなくなったのです。・・・
この心境を人に話すと「実際はできぬ」といいます。結局死線を越えてみぬとわからぬらしいのです。死線を越えればおのずから肯かれるところであります。・・じつはこの無我の境地に入らずんば『大我的懺悔』は到底起こりえないのです。・・なんといってもこの無敵無欲無我の境地に入ったら頭が極めて軽くなる。眠ってもすらすら寝られる、心にかかることは一点もない、まことに光風霽月であります。・・この世界へくれば病気も自然に治るのです。私の不治の病も薄紙を剥ぐようにいつの間にか治っていました。・・
…煩悩がなくなると自分に触れる人が誰もかれも奇態に懐かしくなる。そうなると又妙に周囲が自分を歓迎してくれる。・・すまわち妙に人から仰がれるようになったのであります。・・以前の不平不満に満ちた顔つきと、「如来無辺誓願事」と知った顔つきと比べてみると人の心の鏡に映らぬはずがあるか。・・・

私が世を恨み呪いのはては死をもって復習せんとして悶え通した挙句、私ごときが死んだとて世の中は微動だにもせぬと知って、全く刀折れ矢尽き遂に大自然の前に自己の生命を投げ出した時、まさしくこれは仏の胎内に托胎してはじめて生死を超えた無我になったのです。8しかしまだ大我ではありません)。母の胎内にあるときは極めて受動的で、ひたすら仏の大悲n恵まれて生かされて生きているのでありますが、しかるに月満ちた時、はじめて大我の子として生まれてくるのです。・・すなわち出生すると同時に今までのようにただ仏の力に生かされたまま生きてきた受動的な状態ではなくて、・・自分がこの世を背負っていかにそれを整えるか、この国体をどうするかといふ風に進んでくる。
・・・自我が托胎して無我となり、母体の中で長養せられるに随って世所依の魂が確立し、更に出胎のときから初めて大我として生まれ出
で、・・この大我の力が次第に鍛錬せられて能動的に働きだし、それによってますます発育する、すなわちこの世所依の魂が菩提心にしてこれが大悲を通って始めて大我の活動を起こすのでありました、・密教はすなわちこの大我より出発するのであります。・・

衆生無辺誓願°、福智無辺誓願集、法門無辺誓願学、如来無辺誓願事、菩提無上誓願証、この五大願は無我より大我にむかったものにしてはじめて起こる誓願であります。この誓願を成就する道はまさしく礼拝行です。本当に拝むことであります。宇宙の一切はことごとく仏の体であるから心を込めて礼拝するとき、随時随所に啓示されます。・・また一切は仏の体なるにかかわらず、・・竹となり、松となり、女となり、男となるという具合に千差万別の相を呈するは因縁格別なるがゆえを知ってその因縁を礼拝し、・・順境はもとより逆境もそのまま仏として礼拝するのです。(続)




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