古今著聞集 釈教第二「一条院大僧都定昭法験の事」
一条院大僧都定昭(平安時代中期の真言僧。父は左大臣藤原師尹。嵯峨僧都・一乗院僧都も称される。興福寺の忍斅に法相を学び、寛空に灌頂を受けて大覚寺別当。東寺長者・興福寺別当・金剛峯寺座主を歴任し、興福寺一乗院を創建。晩年は「法華経」読誦に専念。)は法相宗兼学の人なり。天元二年979二月九日、金剛峰寺座主に補して、同十二月廿一日、大僧都に轉ず。四年981八月十四日、東寺の長者、興福寺等別当を辞し申しける状に云、
「興福寺・東寺・金剛峰寺別当職の事
右定昭、若年の時より、法華一乗を誦し、念仏三昧を修す。先年往生極楽之記蒙り、而して近曽(さいつころ)夢中に悪趣に堕つべきの由を見る。定んで知る、件等の寺務に依りて示現する所なり。往年の告の如く往生極楽せんが為に、謹んで辞すること件の如し。
天元四年八月十四日 大僧都定昭」
この僧都、一条院の庭前に一株の橘の樹あり、久しくして枯木となりにけり。大仏頂呪一反を誦して、加持の間、則ち花葉を出だしけり。
また舟に乗りて上洛しける時、天童十人出現して、舟をになひて岸に着しけり。僧都は「これ、十羅刹(法華経に説かれる法華経受持の人を護持する十人の羅刹女)のわれを救ひ給ふぞ」と申しける。また不動明王も形を現じて擁護し給ひけるとなん。
永観元年983三月廿三日入滅す。右手に五鈷を持ち、左手に一乗経(法華経)を持つ。初めは密印を結び、後には法華経を誦す。薬王品に至りて、「於此命終即往安楽世界乃至恒河沙等諸仏如来」の文を両三反誦して、弟子に告げていはく、「わが白骨なほ法華経を誦して、すべからく一切を渡すべし」と言ひて、定印を結びて、居ながら終りにけり。
その後、墓内に経を誦する声聞こえけり。また鈴の聲なども聞こえけるとなん。