福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「円頓止観」を唱えて行疫神から逃れた僧(修正)

2020-02-02 | 法話
新型肺炎が流行の兆しですが沙石集には「円頓止観」を唱えて行疫神から逃れた僧の話があります。

『沙石集』円頓の学者鬼病を免るる事
「中ごろ、ある山僧、日吉の大宮に参籠す。夜半ばかりに、夢にもあらず、うつつにもあらずして、見れば、行疫神(ぎやうやくしん)の異類異形なる、数知らず参りて、「天下一同の災ひにて候ふ。山僧少々給ふべし」と申すに、神人出で向ひて申しけるは、「山門の学者をば許すべからず。ただし、住山者の中に、『わが山に住せよかし』と思ふに、近く本国へ下るべき僧あり。かれを悩まして、暫くにても留むべし。命は奪ふべからず。その谷のその坊にあり。名をば某と言ふと仰すなり」と言ひければ、疫神ども、はらはらと出でぬ。
件の坊に行きて、入らんとするに、この僧、国へ下るべきにて、山の名残も惜しく思えければ、夜更くるまで心を澄まして、「円頓者、初縁実相。造境即中、無不真実。繋縁法界、一念法界、一色一香無非中道。已界及仏界衆生界亦然。陰入皆如、無苦可捨。無明塵労即是菩提、無集可断。辺邪皆中正、無道可修。生死即涅槃、無滅可証。無苦無集、故無世間。無道無滅、故無出世間。純一実相。実相外更無別法。法性寂然名止、寂而常照名観。雖言初後、無二無別。是名円頓止観」
円頓とは初めより実相を縁ず。境にいたるに即ち中なり。真実ならざること無し。
縁を法界に繋(か)け、一念法界なり。一色も一香も中道に非ざる無し。己界および仏界・衆生界もまた然り。
陰入みな如なれば苦の捨つべき無く、無明塵労即ちこれ菩提なれば集として断ずべき無く、辺邪みな中正なれば道の修すべき無く、生死すなわち涅槃なれば滅として証すべき無し。
苦無く集無きがゆえに世間無く、道無く滅無きがゆえに出世間無し。
純(もっぱ)ら一実相にして、実相の外にさらに別法なし。法性寂然なるを止と名づけ、寂にして而も常に照らすを観と名づく。
言ふこと初後なりといえども二無く別無し。これを円頓止観と名づく。
(当に知るべし、身上は一念三千なり。ゆえに道を成ずるのとき、この本理に称(かな)い、一心一念、法界に遍(あま)ねからん。)」
)」
といふ文を誦しければ、鬼神、いかにも近付くことあたはずして、さて、御社へ返り参て、このよしを申すに、「さては無力の事」と言ふ仰せにて、鬼類ども去りぬと見て、この僧、かの住山者のもとに行きて、「かかることをまのあたり見侍りつる」と語りければ、「神慮さやうに思し召したる御事のかたじけなさよ」とて、本国へ下ること思ひとどまりて、永く山にぞ住してける。
この文は、天台大師、南岳大師に三種の止観を伝へ給ふ(天台大師智顗は南岳慧思から相伝した三種止観によって、当時の諸経論の禅観すべてを整理して仏教の修行法を体系づけた。持戒のうえ禅定を修し、しだいに深い禅観に入って真実を体得する〈漸次止観〉を『次第禅門』で述べ、修行者の性質能力に応じて順序の不定な実践法〈不定止観〉を『六妙門』で説き、初めから実相の真実を対象とし、行も理解も円満で頓速な〈円頓止観〉を『摩訶止観』で解釈し、大乗仏教の極致とした)中の円頓止観の肝心の文なり。止観の第一の巻にあり。円頓の解行この文に極まる。深く観ずれば無明をすら断じ、あるいは五品六根にもかなひぬべし。それほどの益は言ふに及ばず、わづかに信心をいたし、学解の分なれども、世間の利益かくのごとくのことはあるべきなり。
法界等流の音声、真善妙有の文字なり。日光の霜露を消ち、薬王の病患を癒すごとく、災難おのつから除こり業障必滅すべし。心あらむ人この文を習ひて常に口にも誦し、心にも観ずべし。よつて本文を書き侍るなり。天台の学者は、みな口に付けたり。心を悟るまでなくとも、なほし益あるべし。
涅槃経には、「この大涅槃の光明、常に衆生の毛孔より入りて菩提の縁となる」と言へり。また梵網経には、「一切の畜類を見ん時は、『汝是畜生発菩提心』と言ふべし」と説く(大般涅槃經卷第九・如來性品第四之六に「復次善男子。如日月光諸明中最。一切諸明
所不能及。大涅槃光亦復如是。於諸契經三
昧光明最爲殊勝。諸經三昧所有光明所不
能及。何以故。大涅槃光能入衆生諸毛孔故。
衆生雖無菩提之心而能爲作菩提因縁。是
故復名大般涅槃。迦葉菩薩白佛言。世尊。
如佛所説大涅槃光入於一切衆生毛孔」)

(梵網經盧舍那佛説菩薩心地
戒品第十卷下に「若見牛馬猪羊一切畜生。應
心念口言。汝是畜生發菩提心」)
。下劣の有情、たとひ領解なくとも、法音、毛孔より入りて遠く菩提の因縁となると言へり。
また、先徳のいはく、「泥木の形像は大智よりおこり、紙墨の経巻は法界より流る」と(四座講式にあり)。まことに、仏智を仮りて形像を刻み、法界を全くして文字にあらはす。これゆゑに、仏像を拝すれば、おのづから益を得、経巻に向へば、必ず罪を除く。
しかれば、いたづらに人畜に向ひて、愛恚の心をおこさんよりは、常に仏像に向ふべし。よしなき世間の文字を読みて、妄慮を増さんよりは、同じくは経巻を見るべし。人に善性あり、悪性あり。勝縁たる三宝の境に向へば、妙用あらはれやすし。悪縁たる六塵の境に対すれば、妄業作りやすし。すべからく善知識の縁に近付きて、深く大乗の益を信ずべし。
華厳経に多聞を誹すること「日夜数他宝、自無半銭分。(日夜に他の宝を数へて、自ら半銭分無し。)」と(大方廣佛華嚴經如來光明覺品第五に「多聞亦如是
譬人大惠施 種種諸肴膳
不食自餓死 多聞亦如是
譬如有良醫 具知諸方藥
自疾不能救 多聞亦如是
譬如貧窮人 日夜數他寶
自無半錢分 多聞亦如是」
)。これは行を勧めんためなり。多聞ばかりも、なほなほ業の種子となる。七種の聖財の一つなり(七聖財とは、さとりを得るための信・戒・聞・慚・愧・捨・慧)。一向いたづらに思ふべからず。荊渓(中国天台宗第六祖)いはく、「如実智従多聞起(如実智は多聞より起こる)云々」。
耆婆(頻婆羅王や釈尊の病を療し亦深く仏教に帰依した)薬草等を取り集めて童子を作り、これを薬童と名付く。病人これを見て、軽き病は形を見るに癒え、重病は近付きて、手を取り、言を交へて、すなはち癒えけり。遊行言語すること生ける人のごとし。仏像をこれに喩へたり。見奉らばおのづから罪障滅すべし。信心の厚薄、観念の浅深によりて、その益異なるべし。
青丘の太賢師(唐代法相宗學僧,號青丘沙門)梵網経の「汝是畜生発菩提心と誦すべし」と言へる文を釈していはく、「下劣有情設無領解、声入毛孔遠作菩提之因縁(下劣の有情はたとひ領解無くとも、声毛孔に入りて遠く菩提の因縁を作らん)」となり。

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