田辺元「懺悔道としての哲学」・・・最終回
「・・・救いの媒介となって働く以外に仏國土はありえない。・・・へーゲルの弁証法はカントにおける理性の矛盾を自己の中に含めて現実を把え、理性の偉力で現実を貫いたがこれは正しく賢人賢者の道である。
私のような愚者凡夫は謝るほかない。しかし私は理性をこえた仏の世界、現実に働く大悲の世界に転ぜしめられた。・・・自己の救いは・・自己の渡る先に他を渡す以外に道はない。菩薩行とはかかるものである。・・・
これは仏教教団という特殊な世界に限るのでなく、この現実の国家的社会建設に下りてくるのであり、・・・人情的なものをも包み生かす世界の建設でなければならない。・・・みなが相互に睦あい、相互に救いに出得るような政治がありうるはずである。・・・
聖徳太子の憲法十七条の第一に「和を以って貴しと為す」とあるが、この和は・・個と個を生かしきるものと考えられる。否定を通さずに個と個が互いに睦みあうことができるはずであり、太子の御一生はわたしの申す内容に一致していると思う。
「世間虚仮、唯仏是真」といって仏のみが唯一の実在なることを認められた太子が現実の世界におりてこられ、対外対内の政治に努力を重ねられ、困難な道を遂行せられたが、これが正に懺悔の道である。・・(終)」
「・・・救いの媒介となって働く以外に仏國土はありえない。・・・へーゲルの弁証法はカントにおける理性の矛盾を自己の中に含めて現実を把え、理性の偉力で現実を貫いたがこれは正しく賢人賢者の道である。
私のような愚者凡夫は謝るほかない。しかし私は理性をこえた仏の世界、現実に働く大悲の世界に転ぜしめられた。・・・自己の救いは・・自己の渡る先に他を渡す以外に道はない。菩薩行とはかかるものである。・・・
これは仏教教団という特殊な世界に限るのでなく、この現実の国家的社会建設に下りてくるのであり、・・・人情的なものをも包み生かす世界の建設でなければならない。・・・みなが相互に睦あい、相互に救いに出得るような政治がありうるはずである。・・・
聖徳太子の憲法十七条の第一に「和を以って貴しと為す」とあるが、この和は・・個と個を生かしきるものと考えられる。否定を通さずに個と個が互いに睦みあうことができるはずであり、太子の御一生はわたしの申す内容に一致していると思う。
「世間虚仮、唯仏是真」といって仏のみが唯一の実在なることを認められた太子が現実の世界におりてこられ、対外対内の政治に努力を重ねられ、困難な道を遂行せられたが、これが正に懺悔の道である。・・(終)」