太平記巻四十 蒙古日本を攻むる事 付けたり神戦のこと
「 つらつら三余のいとまに千古の記文を看れば、異国より吾が朝を攻めしこと、開闢より以来すでに十一箇度に及べり。故文永・弘安両度の戦ひは、太元國の老皇帝、支那四百余鰍をうちとって勢ひ天地を凌ぐ時なりしかば、小国の力にて敵しがたかりしかども、たやすく太國の兵を亡ぼして、吾が国無為になりしことはただ尊神・霊祇の冥助によりし故なり。その征伐の様を聞けば、太元の大将万将軍、日本の王畿五箇国を四方三千七百里に勘へて、その地に兵を透間もなく立てならべて、これを数ふれば、三百七十万騎にぞ相当りける。かよううに考へて、この兵ども大船七万余艘に乗せて、津々浦々よりぞおしいだす。この企てかねてより吾が朝に聞こえしかば、その用意をいたせとて、四国・九州の兵は筑紫の博多に馳せ集まり、山陽・山陰の勢は帝都(京都)に馳せ集まり、東北・北陸の兵は越前の敦賀津(敦賀市)をぞ固めける。
さるほどに文永二年八月十三日、太元七万余艘の兵船、同時に博多津におしよせたり。大舶ともへ双べて、もやひを入れ歩みの板を渡して、陣々に油幕を引き、干戈を立てならべたれば、五嶋より東、博多の浦にいたるまで、海上の四囲三百余里、俄に陸地になって、蜃気ここに乾闥婆城を吐きいだせるかと怪しまる。
日本の陣の構へは、博多の浜は十三里に石堤を高く築いて、前は敵の為に切り立てたるが如く、後ろは御方のために、平らにして、かけひき自在なり。そのうちに屏を塗り陣屋を作りて、数万の兵並み居たれば、敵に勢の多少をば見透かさせじと思ふところに、敵の舟のへさきにはねつるべの如くなる柱の、十四,五丈も高きを立て、其の末に横たはれる木の上に座をかまへて、人をのせたれば、日本の陣中は目の下にみおろして、秋ごうのさきをも数へつべし。また面の四、五尺ばかり広き板を筏のごとく畳み鎖りて若干波の上に敷き並べたれば海上に平らなる路余た作りだされて、恰も二条の大路、(長安の)十二街区に異ならず。この道より夷賊数万人兵馬を駆け出して、死をかえりみず戦ひしかば、日本の軍勢は鋒たゆみ鏃尽きて、多くは退屈してぞ覚えたる。鼓を打って兵刃すでに雑る時、鉄砲とて鞠の勢なる鉄丸のほとばしること、坂を下る輪宝の如く、霹靂閃き電光の如くなるを、一度に二、三千投げ出したるに、日本の兵多く焼き殺され、関・櫓に火は燃え付きて、打ち消すべき隙もなかりけり。
かかるところに上松浦・下松浦のものども、この戦ひの様をみるに、尋常のごとくにては叶はじと思ひければ、外の浦より回りて、わずかに千人に足らぬ勢にて夜討をぞしたりける。志のほどは武けれども九牛の一毛、大倉の一粒にも当たらざるほどの勢数なれば、敵を討つことは二、三千なりしかどもつひに皆生け捕られて身をるいせつのもとに苦しめ、掌を連策の舷につらぬかれ、たちまち残るものどもは悉く四国・九州へぞ落ち行きける。
されば日本一州の貴賎・上下、如何せんとなげきかなしみ、周章騒ぐこと斜めならず。これによって、諸社の御幸・行幸、諸寺の大法・秘法、宸襟を傾け肝胆をぞ砕かれける。そうじて日本六十余州大小の神祇、霊験の仏閣等に勅使を立てられ、奉幣を捧げられずといふことなし。かくのごとく御祈祷すでに七日に満じける日、諏訪の湖上より五色の雲西にたなびいて、大蛇のかたちにぞみえたりける。また(真言僧叡尊上人が祈願した)石清水八幡宮の御宝殿の扉開けて、馬の馳せ走る音、轡のなりひびく声、虚空に充満たり。日吉二十一社(日吉大社の上七社・中七社・下七社の総称)の錦帳の御鏡うごき、神宝の刃とがれて、御沓西にむかへり。住吉四所(住吉大社の第一本宮から第四本宮)の神馬どもも移の下に汗流れ、(吉野山の)児守・勝手の鉄の楯西に向かって突きならべたり。凡そ上中下二十一社の震動・奇瑞申すに及ばず、大日本国中の大小の諸神の名帳に載するところ、三千七百五十余座ないし山家村里の小社・櫟社・道祖神とうにいたるまで、御戸の開かぬはなかりけり。
春日野の鹿、熊野山の霊鳥、気比宮(敦賀市)の白鷺、稲荷山の命婦等、所々の仕者、悉く虚空を西へ飛び去ると、諸人の夢にもみえければ、さりともこの神達の助けにて、夷族を退け玉はぬ事あらじと思ふばかりに頼みをかけ、種々の幣帛を捧げ信心を凝らすところに、弘安四年七月七日、伊勢皇大神宮の禰宜荒木田尚良、豊受大神宮の禰宜渡会貞尚等(両部神道と結合した伊勢神道を提唱)を始めとして、十二人連記の起請文を捧げて上奏す。
(上奏文には)「二宮の末社、風の宮(外宮にあり、ご祭神は、風雨を司る級長津彦命、級長戸辺命)の神殿動揺すること良久し。昨日六日の暁天に及びて、かの宝殿より赤き雲一村立ち出でて、天地を輝かし山川を照らす。その光の中より夜叉・羅刹のごとくなる青色の鬼人現出して、土嚢の結目解く。大風その口よりふきいでて、砂漠を掲げ、大木どもを吹き抜くことおびただし。測り知んぬ、九州発向の凶族等、この日すなはち滅ぶべしと云う事を。事もし実ありて、奇瑞変に応ぜば、年来望み申しつるとことろの宮号、叡感の儀を以って宣下せらるべし。」
されば、その日太元國七万余艘の艨艟(もうどう、幅の狭い軍船)をふなよそおひして、文司・赤間関を経て、長門・周防へおしわたる。兵船すでに度中を渡るときまでは、さしも風止み雲おさまりたる天気、俄にかわりて恐ろしげなる黒雲一村艮の方より立ちいでて、大虚にうずまき覆ふとぞ見えし。
大風烈しく吹いて逆浪天に漲り、雷鳴霹靂して、電光地に激烈す。かかりりければ、蒙古七万余艘の兵船、あるいは荒磯の岩に当たって微塵に砕かれ、あるいは逆巻く波に打ち返されて、夷族悉く失せにけり。・・・」 「太平記巻四十 蒙古日本を攻むる事 付けたり神戦のこと」(引用終)
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