明日は香取神宮・鹿島神宮参拝です。両神宮の御祭神と御本地です。
香取神宮、
佐原市観光協会のホームページ等によると、
1、御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。大神は天照大御神の御神意を奉じて、鹿島の大神と共に出雲の国の大国主命と御交渉の結果、円満裡に国土を皇孫に捧げ奉らしめ、更に国内を御幸して荒振る神々を御平定され、日本建国の基をお築きになり、又東国開拓の大業を完遂せられて、平和国家の建設と民生の安定福祉に偉大なる御神威を顕わされた。・・
2、御本地は十一面観世音菩薩。江戸時代までは香取山金剛宝寺という神宮寺(旧参道を飯篠長威斎家直の墓を左手に見ながら少し進んだ右手にある祖霊社はその跡)があり、神宮の本地仏十一面観世音菩薩を本尊としていました。「神道集」には「香取大明神事。そもそも香取大明神は、下総国の一の宮なり。 本地は観音なり。また玉崎明神は、この国の二宮。 上下両所の一二宮、香取も玉崎も、皆同く本地は十一面観音なり。この仏は理法身(客観的真理)に依て、智法身(主観的智慧)を成す。 理智冥合の真身より、他受用応化(他者に法を受けさせる、教化する)の身を成して、慈悲説法化他利物の菩薩なり。」とあります。
鹿島神宮
1、御祭神は武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)
『日本書紀』では葦原中国平定の段で下界に降される二柱は、武甕槌(鹿島神社の主神)と経津主大神(ふつぬしのおおかみ、香取神宮の主神)。武甕槌は出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ち、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てその上に胡坐をかいて、大国主に対して国譲りをせまり、大国主の子の建御名方神(タケミナカタ)と力比べをして一捻りにし、勝利。これが相撲の起源とされている。
2、御本地、十一面観音。「神道集」に「鹿嶋大明神事。そもそも鹿嶋大明神は、天照太神の第四の御子なり。 天津児屋根尊は金鷲に駕して、常陸国に天下り、古内山旧跡鹿嶋里に顕れたまふ。 その間は幾千年と云ふ事を知らず。 御本地は十一面観音なり。・・」とあり、
「諸神本懐集」に「鹿嶋の大明神は、本地十一面観音なり。 和光利物のかげあまねく、一天をてらし、利生済度のめぐみ、とおく四海にかうぶらしめたり。 このゆへに、たのみをかくるひとは、現当の悉地を成じ、こゝろをいたすともがらは、心中の所願をみつ。 奥ノ御前は本地不空羂索なり。 左右の八龍神は、不動・毘沙門なり。」とある。
神宮内の看板にはここにも神宮寺があったとして「鹿園を中心とした一角の土堤内は元鹿島山金蓮院神宮寺跡、降魔山護国院跡にして昔親鸞上人が訪れたと伝え、俗に「親鸞上人のお経石」と称して小石に経文の文字をを書いたものが出土したことがあります。なお親鸞上人は「教行信証」を著す為一切経その他の文献閲の為しばしば鹿島神宮を訪れたと伝えられます。当時鹿島神宮は関東有数の経典の宝庫でもありました。」とあり。
香取神宮、
佐原市観光協会のホームページ等によると、
1、御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。大神は天照大御神の御神意を奉じて、鹿島の大神と共に出雲の国の大国主命と御交渉の結果、円満裡に国土を皇孫に捧げ奉らしめ、更に国内を御幸して荒振る神々を御平定され、日本建国の基をお築きになり、又東国開拓の大業を完遂せられて、平和国家の建設と民生の安定福祉に偉大なる御神威を顕わされた。・・
2、御本地は十一面観世音菩薩。江戸時代までは香取山金剛宝寺という神宮寺(旧参道を飯篠長威斎家直の墓を左手に見ながら少し進んだ右手にある祖霊社はその跡)があり、神宮の本地仏十一面観世音菩薩を本尊としていました。「神道集」には「香取大明神事。そもそも香取大明神は、下総国の一の宮なり。 本地は観音なり。また玉崎明神は、この国の二宮。 上下両所の一二宮、香取も玉崎も、皆同く本地は十一面観音なり。この仏は理法身(客観的真理)に依て、智法身(主観的智慧)を成す。 理智冥合の真身より、他受用応化(他者に法を受けさせる、教化する)の身を成して、慈悲説法化他利物の菩薩なり。」とあります。
鹿島神宮
1、御祭神は武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)
『日本書紀』では葦原中国平定の段で下界に降される二柱は、武甕槌(鹿島神社の主神)と経津主大神(ふつぬしのおおかみ、香取神宮の主神)。武甕槌は出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ち、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てその上に胡坐をかいて、大国主に対して国譲りをせまり、大国主の子の建御名方神(タケミナカタ)と力比べをして一捻りにし、勝利。これが相撲の起源とされている。
2、御本地、十一面観音。「神道集」に「鹿嶋大明神事。そもそも鹿嶋大明神は、天照太神の第四の御子なり。 天津児屋根尊は金鷲に駕して、常陸国に天下り、古内山旧跡鹿嶋里に顕れたまふ。 その間は幾千年と云ふ事を知らず。 御本地は十一面観音なり。・・」とあり、
「諸神本懐集」に「鹿嶋の大明神は、本地十一面観音なり。 和光利物のかげあまねく、一天をてらし、利生済度のめぐみ、とおく四海にかうぶらしめたり。 このゆへに、たのみをかくるひとは、現当の悉地を成じ、こゝろをいたすともがらは、心中の所願をみつ。 奥ノ御前は本地不空羂索なり。 左右の八龍神は、不動・毘沙門なり。」とある。
神宮内の看板にはここにも神宮寺があったとして「鹿園を中心とした一角の土堤内は元鹿島山金蓮院神宮寺跡、降魔山護国院跡にして昔親鸞上人が訪れたと伝え、俗に「親鸞上人のお経石」と称して小石に経文の文字をを書いたものが出土したことがあります。なお親鸞上人は「教行信証」を著す為一切経その他の文献閲の為しばしば鹿島神宮を訪れたと伝えられます。当時鹿島神宮は関東有数の経典の宝庫でもありました。」とあり。