福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は伏見天皇が金光明経を書写して石清水に納められた日

2025-02-09 | 法話

 

紙本墨書伏見天皇宸翰御願文(正和二年二月九日)https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjwr8zd9czuAhWDP3AKHe-pBpA4HhAWMAR6BAgLEAI&url=https%3A%2F%2Fbunka.nii.ac.jp%2Fheritages%2Fdetail%2F186742&usg=AOvVaw0Si5aRdUqX8gBTsvqfoHL-

正和2年2月、伏見天皇(1265~1317)が子の後伏見天皇と石清水八幡宮に参籠し、紺紙金字の最勝王経一部十巻を書写・奉納したときの願文。御趣意は後深草天皇が宸筆を奉納して毎年の齋会を置き給うたそのお経が紛失したのを伏見天皇が後伏見天皇と共に補写せられて今年は厄年に当たるのでその災いを払い給わんとすると共に春日神社の遷座と諸寺の強訴が頻繁なのを憂い思召したもの。

敬白、書写し奉る、金泥金光明最勝王経一部十巻。

此の経は演説を中天の風に開き、翻訳を西明の月に顕はす。後深草院、文永年中勅願により自写さる。正応の代始め、叡慮を抽んで供養あり。八幡三所の霊壇に奉納し、五日十坐の法筵を定置す。毎年の斎会、永代の精勤也。而も彼の妙典、不慮に紛失、他経を以て恵行を遂行すは頗る陵遅(次第に衰える)に似たり。尤も廟鑒を恐る。仍って愚下眇身自ら疎毫を課し兮先蹤を続ぐ。太上親皇、同じく宸筆を染め一部を満ず。参詣の初日支幹の良辰、此の真文を称揚し其の講席を展しむ。

右経典の旨趣甄録(ケンロク・はっきりと記録)す。只且夫れ大菩薩の霊威を験す。磐余彦(いわれひこ・神武)余裔を受く羲(ぎ)皇帝司律序也。燧人氏(ここでは天皇のことか)の洪図を伝へ(石清水社は)廿社中第二社に配す。丗六旬の始其の三節を掌る。信逎雲雨蒼茫の色、遥かに西海の西より転ず。煙霞芳菲の影、更に東郊の東より迎ふ。鳩形瑞を表し、男山の化現に儼ふ。鶯脣徳を歌ひ、而して王沢の広被を悦ぶ。行教和尚の衣。連眼を露襟に上に潟し、太史官の書、木精を月齢の次に記し三尊の本地を並也。白毫相五行の法度を正す也。蒼牙象を垂れ、此の奕代(えきだい・代々)欽敬の栢壖(はくぜん)に詣ず。毎春恒例の松宿跂所、伏して惟れば祖霊、両帝父以来、万葉の君、寛元の勝躅を慕ひ、文応の嘉模に比し、汾陽波上、生涯を石清水の余流に任す。崑陰花前、佛宮を玉霄観の宸居に被る。本朝二代の厳観ありと雖も、再び政務を秉ること二三代也。異域一人の尊親多しと雖も自ら政事を問ふ。一両人也。虞夏殷商の典に学び功業尚浅し。伊傳周礼の説を聞けども而も忠讜(ちゅうとう・正直忠義)未だ納れず。何ぞ幸に光粉を誇り、何ぞ徳苛烈を恣にせんや。矧(いわんや)亦、万機諂(てん)諏の隙、魯頌(詩経魯頌の駉の詩に「思無邪」の一句がある)を五華の席にもてあそばんや。六芸紹隆の餘、和語を八雲の篇に詠じ、皆累聖の往策と為す。俗の要道を弘導せんと欲し、然る間今歳當に厄会の運にあたる。宿曜謹慎の由を奏し、或は天孽(てんげつ・天のなせる禍)の兆を驚かす。

只景公三舎の策を思ひ、或は時妖の惶を示す。偸文王九齢の祥を慕ひ、加之、神木両年遷座す。一陰一陽の道、測り叵(かた)し。率土近曽静謐ならず。諸寺諸山の訴、休みなし。菲薄の性、独り其の責めを恥ず。微眇の身、彌よ其の分を顧みる。若し霊祧の加被非ずんば、争でか皇家の泰年を得んや。是を以て丹悃精府を凝らし、金光明経を擎ぐ。最尊最勝の教法也。七十三偈の華文新呈除災除病の正業也。萬六千歳の椿算全保、君主玆に繇(よ)りて安寧、兆民厥(けつ・ぬかずく)を為して愷楽。紙は蔡侯倫の貢獻、紺玉輝を瑩ず。字は檪陽公の珍を求む。黄液色を染め、功能無量、利益甚深、便ち法印大和尚位權大僧都覚守を屈し、唱導師と為し、鵞子の智弁を振ふ也。鷲頭嶺より出て舌を吐き群卿軌儀を整ふ也。龍尾壇より来り肩を差し、五日秘蹟を探し、十口碩才を競ひ、縡之鄭重、周備せざるなし。於戯薫修、牗(ゆう・窓)を開き、妙香を梅花院の辺に添ふ。実相林を成し、善根を松枝檻の下に殖ふ。旧軌を叡念に守ると雖も、剰つさへ新製を寸信に励む。遐とおく未来際を限り、不朽の勤を為すべし。復嫡嗣上皇の臨幸を奄ふ也。梵席の壮観を叶へ、祖宗先祖の霊託を告也。殊に此の経の法楽を感じ、和光同塵の權扉焉いずくんぞ定て浄味を部類眷属に施さん。論談決択の講場矣。

菩薩聖衆の影向、疑ふべからず。善願成矣。慶事就矣。昔の梁の武帝の金泥経を書す也。卜って韶唇二月の会節を以て袷者仁祠に臨み而して法座を起こし袷者仁祠を崇びて斎筵を刷り蹤跡相似たりと雖も、納受是れ猶厳者か。然れば則ち城南累年の豫参、久しく南山不騫の寿に契矣。寰中(かんちゅう・畿内)治天の庶績(功績)、よろしく中国無為の化に属すべき焉。抑も景福を分け清禁を祝ひ奉る候風句雨の瑞、風雨時を若せしめ、朝日夕月の礼、日月と明侔ひとし。新仙洞中左右真仙の方を伴ひ、慈母堂上、東西王母の算に慣る。永福広義門焉。

綺羅地を照らす。聖牢賢佐家矣。柱石基を固め、又准三宮鎮万栄の蓄時を教ふ。蘭坂公主の室、繁華頻輝、柳闕君子の宮、妖塵永く拂ふ。干戈戢(しゅう)弓矢槖(たく・なかに詰める)(詩経に「載ち于戈を戢め 載ち弓矢を橐にす」)、刑措用ず、黍稷登り稼穡豊か。福応尤も盛ん。恵薫を龍葩の暁に約し、淳朴を驪栗の世に還る。凢厥(ぼんけつ・陰陽不順)徳隣有。之無際に及ぶ。敬白

正応二年二月九日 太上天皇凞仁敬白」

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