往生兜率密記(無量壽院尊海)・・8
巻下往生霊鍳第七
天竺
・西域記第四に曰く、無著菩薩は健駄羅國の人也。佛世を去りて後一千年の中に霊を誕し、利見して風を承け、道を悟る。弥沙塞部に従って出家し修学す。頃之、信を大乗に廻す。又無著菩薩は夜は天宮に昇り慈氏菩薩の所に於いて瑜伽師地論・荘厳大乗経論・中辺分別論等を受け、昼は大乗の為に妙理を講宣す。
・西域記同巻にいわく、世親菩薩(無著の弟)説一切有部に於いて出家し、業を受く。博聞強識。學に達し機を研く。無著の弟子、仏陀僧訶(唐には師子覚と言う)は密行測り難く高才の聞こへあり。二三の賢哲毎に相ひ謂って曰く、凡そ修行の業順は願はくは慈氏に覲(まみ)えたてまつらん。若し先に寿を捨て宿心を遂ることを得るは當に相ひ報悟して以て所至を知らしむべし。其の後、師子覚は先ず寿命を捨つ。三年にして報ぜず。世親菩薩尋ねて亦寿を捨つ。時に六月を経て亦報命することなし。時に諸の異學咸く皆な譏誚す。おもへらく、世親菩薩及び師子覚は悪道に流転して終に霊鍳なしと。其の後、無著菩薩は初夜分に於いて門人の為に定法を教授す。橙光忽ちに翳くして空中大に明なり。一の天仙人あり、虚に乗じて下り降る。即ち階庭に進みて無著を敬礼す。無著のいわく、爾きたること何ぞ暮そかる。今名をば何とかいふ。対へていふ、此れより寿命を捨てて都史多天慈氏の内衆に往き、蓮華の中に生ず。蓮華わずかに開きて慈氏讃じていわく、善来広恵、善来広恵、と。旋繞わずかに周って即ち来りて報命す。無著菩薩のいわく、師子覚は今はいずれの処にか在るや。曰く、我旋繞の時、師子覚を見るに外衆の中に在り。慾楽に耽着して相顧に暇なしと。詎なんぞ能く来りて報ぜんや。無著菩薩のいわく、斯の事やんぬるかな。慈氏何なる相にて何の法を演説したまんや。曰く、慈氏菩薩の相好は言を以て能く宣ること莫し。妙法を演説したまふ。義ここと異ならず。然りといえども菩薩の妙音清暢にして和雅なり。聞く者倦むことを忘れ受る者厭ふ無し。
・提婆犀那といふもの有り。羅漢なり。都史多天に往来す。徳光といふ者、慈氏にまみへて疑いを決し益を請はんことを願ふ。天軍神通力を以て接して天宮に上らしむ。既に慈氏にまみゆ。長揖して礼せず。
天軍謂って曰く、慈氏菩薩は佛位に次紹けり。何ぞ乃(なんじ)自ら高ふして敢て敬を致さざる。方に業を受けんと欲はば如何にして屈せざる。徳光こたへて曰く、尊者の此の言、誠に指誨なりと為す。我は苾芻出家の弟子なり。慈氏菩薩は天の福業を受けて出家の侶に非ず。而も作禮せんと欲すれども宣ぶところに非ざること菩薩其の我慢心の故に是の法器に非ずと知りて往来すること三遍せんか請疑を得ず。
・西域記に曰く、達麗羅川の中に大伽藍あり。側に刻木慈氏菩薩の像あり。通(およそ)高さ百余尺、末田底迦羅漢、匠人を携引きて都史多天にのぼり、まのあたり妙相を観ず。往来すること三遍、乃ち功畢りぬ。
(大唐略四験を挙ぐ)。
・玄奘法師、本の名は褘(い)、姓は陳氏。漢の太丘弓の後也。子孫河南に徒る。故に今洛川の緱(こう)氏人なり。奘生常以来弥勒にうまれんことを願ふ。西域に遊ぶに及んで又無著兄弟皆彼の天に生ずと聞きて頻りに祈請す。咸く顕証あり。此れを懐かしんで専ら至りて益々翹勵(ぎょうれい)を増す。後玉華に至って、但隙次あれば都史多天に生じて弥勒佛を見たてまつることを願はざることなし。般若を翻じおわってより、惟自ら策勤して行道礼懺す。麟徳元年664翻経の僧および門人に告げて曰く、有為の法は必ず摩滅に帰す、泡幻の形質何ぞ久しく停ることを得ん。行年六十五矣。必ず玉花に卒し、正月九日に至って寺僧に告げて曰く、「奘必ず當に死すべし。経にいわく、此の身のにくむべきこと猶し死せる狗のごとしと。奘既に死し終らば宮に近くて寺山の静処に之を蔵せよ。因って既に疾に臥す。目を開き目を閇すに大蓮華の花鮮白にして而も又偉相を見る。仏前に生まれることを知りて欣悦を懐き、総て門人を召す。有縁並び集まる。云く、「無常将に及ばんとす。急に来たりて相見せよ」。幷に遺表し訖りて便ち黙して弥勒を念じ、傍らの人に称へしむ。曰く、「南謨弥勒如来応正等學、願はくは含識とともに速やかに慈顔を奉ぜん。南謨弥勒如来、所居の内衆、願はくは命を捨て已って必ず其の中に生ぜん」と。二月四日に至って右脇にて足を累ね、右手を頭に支へ、左手をももの上にして鏗然こうぜんとして動かず。何の相ぞと問われれば報じて曰く、「問ふこと勿れ。吾が正念を妨ぐ」と。五日の中夜に至って弟子問て曰く、「和尚定んで弥勒の前に生まれんやいなや」と。答ていわく、「決定して生まれることを得」と言已りて気絶へ、神逝く。今に至る迄両月色貌常の如し。又冥応有り。略する故に述べず。已上続高僧傳。
・慈恩法師、本の名は窺基、宋の高僧傳にいわく、唐書に傳あり、基が母斐氏、夢みらく月輪を掌にして之を呑むと。寤て孕むことあり。及んで月盈ちて誕ずるにいよいよ群児と類せず。数万誦習して神晤精爽なり。後にみずから五台山に遊び太行に登って西河の古佛宇の中に至りて宿す。夢みらく、身は半山にあり、厳下に無量の人苦なりと唱ふる聲あり。冥昧の間初て聞くに忍ず。徒歩にて彼の層峯に陟る。皆瑠璃色なり。ことごとく諸の国土を見る。仰で一城を望むに城中に聲ありていわく、「住住咄。基公いまだ此処に至るべからず。」しばらくありて二の天童城より出でて問て曰く「汝山下の罪苦の衆生を見るや否や」。答ていわく「我聲を聞きて而も形を見ず」。童子遂に剣一鐔を投輿して曰く「腹を剖きて當に見るべし」と。基自ら之を剖く。腹開けて光両道あり。山下にひかり映じ、無数の人の其の極苦を受るを見る。時に童子城に入り紙二軸及び筆を持して之を投ず。捧げ得て而も去る。旦に及んで驚異すること未だ已まず。信夜を過ぎて寺中に光あり。久しくして滅せず。尋ねて之を視るに数軸光を発す者なり。之を探るに弥勒上生経を得たり。乃ちおもへらく、前の夢は必ず慈氏我に疏を造りてその理を流通せしめたまふ耳と。遂に毫を援る。次に筆鋒に舎利二七粒有りて、而も隕つ。呉含桃許りの大さの如し。紅色にして愛すべし。次に零然として而も下つる者あり。状ち黄粱粒の如し。乃至基生常勇進にして弥勒の像を造り、其の像に対していわく、「菩薩戒一遍を誦し兜率に生まれんことを願ふ。其の志を求むるや」。乃ち通身に光瑞を発す。爛然として観るべし。(慈恩大師は『観弥勒菩薩上生兜率天経賛』を撰しています。)
・弥天の道安法師、梁の高僧傳にいわく、釈道安、姓は衛氏、常山扶柳の人也。家世世に英儒にしてつとに覆陰を失ふ。外兄の孔氏が為に養はる。年七歳にして書を読むに再び覧じて能く誦す。郷鄰嗟嘆す。年十二に至って出家す。神性聡敏なり。安、毎に弟子法遇等のために弥勒の前に於いて誓を立て兜率に生まれんことを願ふ。秦の建元廿一年正月廿七日に至って忽ちに異僧あり。形はなはだ庸陋なり。寺に来って寄宿す。寺房すでに窄し。之を講堂に処せしむ。時に維那直殿夜、この僧、窓の隙より出入するを見る。遂に以て安に白す。安驚き起きて礼訊して其の来意を問ふ。答ていわく、相為に而来る。安がいわく、「自惟ふに罪深し、だれか度脱すべき」。彼答て云ふ「甚だ度すべし耳。然も須臾にして聖僧を浴せば情願必ず果さん」と。具に浴法を示す。安、来生に之くとことの処を請問す。彼乃ち手を以て天の西北を虚撥す。即ち雲の開くるを見る。つぶさに兜率妙勝の報を覩(み)る。爾の夕べ大衆数十人悉く皆同く安後に浴具を営む。非常の小児、伴侶数十人来りて寺に入り戯れて須臾に浴に就くを見る。果たして是れ聖應なり。
・隋の西京、大禅定道場の釈霊幹は俗性李氏、金城狄道の人也。志節恭勤にして常に浄行を修す。華厳経殯に依って蓮華像世界観を作り、及び弥勒天宮観を作る。開皇十七年(597)に至って疾に遇てにはかに悶ず。唯心冷ならず。未だ敢て蔵殯せず。後に醒て述べて曰はく、初めて両人を見る。手に文書を把りて房前に立ち、曰く、宮すべからく師にまみゆべし」と。俛仰の間に乃ち俱に往く。状ち空に乗るが如し。足渉るところ無し。一の大なる園に到る。七宝の樹林厳かなること画けるが如し。二人送り達して辞して退く。幹独り東西に目を極む。但し林地山池珍宝にあらざるなしといふことを見る。焜煌として目を乱る。正視することを得ず。樹下の花坐あるいは人有りて坐しあるいは坐する者なし。忽ち人の喚くを聞く。霊幹、汝は此処に来るや。聲を尋ねて之に就く。乃ち恵遠法師なり。礼訊して問うて曰く、此れ何れの所とかなす。答ていはく、是れ兜率陀天なり。吾僧俅と同じく此処に坐す。次に吾が南の坐上は是俅法師なり。遠と俅と形並びに本身にあらず。頂に天冠を戴き、衣に朱紫を以てす。光偉世に絶えたり。但し語聲旧に似たり。依然として識るべし。又幹にいっていはく、汝我が諸の弟子とともに後皆ここに生ぜん。因りて覚悟を得、故業を増し、端然として観行し、人物に交わりを絶つ。大業三年(607)に至って禅定はじめて成ず。八年に至って本房内において患うところ漸く重し。将に終卒せんと欲するに目晴上視す。人と対せず。久しくしての之ち乃ち顔常日の如し。沙門童眞疾を問ふ。因りてこの相を見る。(釈童眞も釈霊幹も共に大禅定寺の僧)。幹、眞に問ていわく、「向に青衣の童子二人来りて召くを見る。相遂って而も去る。兜率天の外に至りて未だ宮に入ることを得ず。若し足を翹(そばだて)て挙望すれば則ち城中を見る。宝珠花蓋平立するが如し。即ち見る所なし」と。傍ら疾に侍る者、向きに目を挙ぐるは是其の相なり。(已上法苑珠林略挙、本朝略出十三験に出す。)
・釈實忠は良辨が徒なり。かって都卒の内宮に神遊して四十九の摩尼殿を見る。一所あり。榜して常念観世院といふ。其の修法の儀を見るに心甚だ信慕す。便ち聖衆に乞ふて軌を得、覚めて後、修法せんと欲す。毎歳二月の朔、十一面の像に対して兜率の軌を修すること、二七日。天平勝宝四年(752)に始まり大同四年(809)に至って五十八歳、未だかって、缼あらず。俗に修二月の法と号す。今に至って絶えず。(已上釈書)。
(ウキぺデアには「実忠、神亀3年(726年) - ?)は、奈良時代の僧。良弁に師事して華厳を学んだ。実忠は東大寺の十一面悔過(通称お水取り)の創始者とされ、二月堂を創建して752年(天平勝宝4年)2月1日から14日間開始したとされる。760年(天平宝字4年)目代となり、東大寺を始め奈良西大寺・西隆寺の造営に参画し、東大寺大仏光背の造作や大仏殿歩廊の修理と寺観整備、百万塔を収める小塔殿や頭塔の造営を行い、767年(神護景雲元年)には御所より光明皇后の一切経をもらい受け如意法堂を建てて納め、春秋2回の一切経悔過を開始し、それともに財政の整備に貢献した。その後、東大寺少鎮・三綱のうちの寺主及び上座・造寺所知事などを歴任し、東大寺の実務面で大いに活躍した。晩年には790年(延暦9年)から815年(弘仁6年)の間に2回、華厳経の大学頭に就任し華厳教学の充実に尽くした。809年(大同4年)に修二会参籠を終了した。
著書には、815年(弘仁6年)一生のうちに自らがたずさわった事業を列記した『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』がある。『二月堂縁起絵巻』(天文14年1545年)によると、天平勝宝3年(751年)実忠が笠置山で修行中に、竜穴を見つけ入ると、天人の住む天界(兜率天)に至り、常念観音院で天人たちが十一面観音の悔過を行ずるのを見て、これを下界でも行いたいと願い十一面悔過を開始したと伝わる。兜率天の一日は人間界の四百年にあたり到底追いつかないと天人の1人に言われ、少しでも兜率天のペースに合わせようと走って行を行うとした。2月5日の夜、十一面悔過中の二月堂内陣須弥壇の下に消えたと伝わる。)
・釈眞興は興福寺仲筭の徒なり。因明に精し。世に唯識観を成じて兜率天に昇って慈氏をみたてまつる。藤の丞相教通、之を聞きて常に欽慕す。興、所居の道場において都史宮を現じて丞相をして瞻禮せしむ。(或る書に、子嶋眞興は後に真言に入る。双天の密供を修し常に兜率内院を現ず云々。)
(ウキぺデアには「興福寺仲算(ちゅうざん)に法相教学を学び、のち吉野の仁賀(にんが)から密教の法を受けた。初め壺坂寺に、その後子嶋寺に住して寺内に観覚寺を創建し、東密子島流を開いた。1003年(長保5年)興福寺維摩会の講師をつとめ、翌1004年(長保6年)この功により権律師に任じられたが真興はこれを辞退している。この間、一条天皇の病気平癒を祈願し、子島寺両界曼荼羅図を賜ったという。寛弘元年(1004年)に御斎会の講師を務めて権少僧都に補されたが、同年5月23日に71歳で入滅した。」)
・釈観喜は和州の人也。行住坐臥弥勒の號を唱ふ。好みて古塔廃寺を修す。自ら材を曳き土を運び、或いは路人の乞ふて加助す。常に鼓を撾って弥勒上生兜率天、四十九重摩尼殿等の偈を唱へて人心を勧発す。帰寂の時、異香室に滿つ。(釈書)。
・釈安珍は鞍馬寺に居す。熊野山に詣ず。牟婁郡に至りて村舎に宿す。舎主寡婦なり。珍容貌あり。中夜に主婦潜に珍所に至って心緒を通ず。珍がいはく、「我は是れ緇徒なり、豈に閨閤の徒ならんや。婦人おおひに恨み珍を離れず。珍、軟諭して曰く、「帰途に必ず来たらむ。婦主姑(しばら)く之を待て」と。女喜ぶ。暁更に珍はやく路に前んで神祠に着きすなわち反るに婦家を経て入らず。急に奔って過ぐ。婦大に怨み瞋りて乃ち室に入りて出ず。宿を経て蛇となる。長さ二丈余、宅を出でて道に奔る。珍、女の化なることを思て
急に馳せて道成寺に入る。衆に告げて救を乞ふ。胥ひ議して太鐘を下し、珍を中に納む。大蛇寺に入り鐘を蟠囲して尾を挙げて鐘を敲く。時を移して蛇去る。寺衆鐘を倒して中を見るに珍を見ず。又骨無し。只灰燼のみ。数夕ありて一の耆宿夢みらく、二蛇前に来って一蛇曰く、「我は是れ前日の鐘中の比丘なり。一蛇は婦なり。我淫婦のために害せられ已に其の夫となる。我が前身妙法華を持す、ねがはくは我が為に壽量品を写せ。我等二蛇定んで苦道を出ん。覚めて後大に憐れむ。乃ち壽量品を写し又衣資を捨てて無遮會を修し、二蛇をして薦む。其の夜、耆宿また夢みらく、一僧一女合掌して告げていはく「我等師の慈恵によって僧は兜率に生じ、女は忉利に生ず」。語りおわりて天に上る。(已上釈書)。
(「今昔物語集巻十四」 「紀伊国道成寺僧写法花救蛇語 第三」「今昔、熊野に参る二人の僧有けり。一人は年老たり。一人は年若くして、形貌美麗也。牟婁の郡に至て、人の屋を借て、二人共に宿ぬ。其の家の主、寡にして若き女也。女、従者二三人許有り。此の家主の女、宿たる若き僧の美麗なるを見て、深く愛欲の心を発して、懃に労り養ふ。而るに、夜に入て、僧共既に寝ぬる時に、夜半許りに、家主の女、窃に此の若き僧の寝たる所に這ひ至て、衣を打覆て並び寝て、僧を驚かす。僧、驚き覚て恐れ迷ふ。女の云く、「我が家には更に人をば宿さず。而るに、今夜君を宿す事は、昼君を見始つる時より、『夫にせむ』と思ふ心深し。然れば、『君を宿して本意を遂げむ』と思ふに依て、近づき来る也。我れ夫無くして寡也。君、哀れと思ふべき也」と。僧、此れを聞て、大きに驚き恐れて、起居て、女に答て云く、「我れ宿願有るに依て、日来心身精進にして、遥の道を出立て、権現の宝前に参るに、忽に此にして願を破らむ、互に恐れ有るべし。然れば、速に、君、此の心を止むべし」と云て、強に辞ぶ。女、大きに恨て、終夜(よもすがら)僧を抱て擾乱し戯ると云へども、僧、様々の言を以て、女を誘(こしら)へて云く、「我れ、君の宣ふ事、辞ぶるには非ず。然れば、今、熊野に参て、両三日に御明御幣を奉て、還向(げかう)の次に、君の宣はむ事に随はむ」と約束を成しつ。女、約束を憑て、本の所に返ぬ。夜曙ぬれば、僧、其の家を立て、熊野に参ぬ。其の後、女は、約束の日を計(かぞ)へて、更に他の心無くして、僧を恋て諸の備へて儲て待つに、僧、還向の次に彼の女を恐れて寄らで、忍て他の道より逃て過ぬ。女、僧の遅く来るを待ち煩ひて、道の辺に出て、往還の人に尋ね問ふに、熊野より出づる僧有り。女、其の僧に問て云く、「其の色の衣着たる、若く老たる二人の僧は、還向やしつる」と。僧の云く、「其の二人の僧は、早く還向して、両三日に成ぬ」と。女、此の事を聞て、手を打て、「既に他の道より逃て過にけり」と思ふに、大に嗔て、家に返て寝屋に籠り居ぬ。音せずして、暫く有て、即ち死ぬ。家の従女等、此れを見て、泣き悲む程に、五尋許の毒蛇、忽に寝屋より出ぬ。家を出て道に趣く。熊野より還向の道の如く走り行く。人、此れを見て、大きに恐れを成ぬ。彼の二人の僧、前立て行くと云へども、自然ら人有て告て云く、「此の後ろに奇異の事有り。五尋許の大蛇出来て、野山を過ぎ、疾く走り来る」と。二人の僧、此れを聞て思はく、「定めて、此の家主の女の、約束を違ぬるに依て、悪心を発して、毒蛇と成て追て来るならむ」と思て、疾く走り逃て、道成寺と云ふ寺に逃入ぬ。寺の僧共、此の僧共を見て云く、「何に事に依て走り来れるぞ」と。僧、此の由を具に語て、助くべき由を云ふ。寺の僧共、集て此の事を議して、鐘を取下して、此の若き僧を鐘の中に籠め居へて、寺の門を閉つ。老たる僧は、寺の僧に具して隠れぬ。暫く有て、大蛇、此の寺に追来て、門を閉たりと云へども、超て入て、堂を廻る事一両度して、此の僧を籠めたる鐘の戸の許に至て、尾を以て扉を叩く事百度許也。遂に、扉を叩き破て、蛇入ぬ。鐘を巻て、尾を以て、竜頭を叩く事、二時三時許也。寺の僧共、此れを恐ると云へども、怪むで四面の戸を開て集て此れを見るに、毒蛇、両の眼より血の涙を流して、頸を持上て、舌嘗づりをして、本の方に走り去ぬ。寺の僧共、此れを見るに、大鐘、蛇の毒熱の気に焼かれて、炎盛也。敢て近付くべからず。然れば、水を懸て鐘を冷して、鐘を取去て僧を見れば、僧、皆焼失て、骸骨尚し残らず。纔に灰許り有り。老僧、此れを見て、泣き悲むで返ぬ。
其の後、其の寺の上臈たる老僧の夢に、前の蛇よりも大きに増(まさ)れる大蛇、直に来て、此の老僧に向て申して云く、「我れは、此れ鐘の中に籠め置れし僧也。悪女、毒蛇と成て、遂に其の毒蛇の為に領ぜられて、我れ、其の夫と成れり。弊(つたな)く穢き身を受て、苦を受る事量無し。今、此の苦を抜かむと思ふに、我が力更に及ばず。生たりし時に、法花経を持(たもち)きと云へども、願くは聖人の広大の恩徳を蒙て、此の苦を離れむと思ふ。殊に、無縁の大慈悲の心を発して、清浄にして、法花経の如来寿量品を書写して、我等二の蛇の為に供養して、此の苦を抜き給へ。法花の力に非ずば、何(いかで)か免るる事を得む」と云て、返去ぬと見て、夢覚ぬ。其の後、老僧、此の事を思ふに、忽に道心を発して、自ら如来寿量品を書写して、衣鉢を投て、諸の僧を請じて、一日の法会を修して、二の蛇の苦を抜かむが為に、供養し奉つ。
其の後、老僧の夢に、一の僧、一の女有り。皆咲を含て喜たる気色にて、道成寺に来て、老僧を礼拝して云く、「君の清浄の善根を修し給へるに依て、我等二人、忽ちに蛇身を棄てて善所に趣き、女は忉利天に生れ、僧は都率天に昇ぬ」と。此如く告畢て、各別れて空に昇ぬと見て、夢覚ぬ。其の後、老僧、喜び悲むで、法花の威力を弥よ貴ぶ事限無し。
実に法花経の霊験掲焉なる事、不可思議也。新たに蛇身を棄てて天上に生るる事、偏に法花の力也。此れを見聞く人、皆法花経を仰ぎ信じて、書写し読誦しけり。亦、老僧の心有難し。其れも、前生の善知識の至す所にこそ有らめ。
此れを思ふに、彼の悪女の僧に愛欲を発せるも、皆前生の契にこそは有らめ。然れば、女人の悪心の猛き事、既に此如し。此れに依て、女に近く付く事を、仏、強に誡め給ふ。此れを知て止むべき也となむ語り伝へたるとや。」)
・釈圓善は叡山の東塔院に居す。法華を誦す。適たまたま熊野の肉背山に遊びて卒す。其の後、沙門壹睿といふもの有り。行きて山中に宿す。中夜に法華を誦するを聞く。傍らに骸骨あり。支體全く連なる。髑髏の口中に舌あり。紅蓮の如し。睿これを見て感恠して所由を問ふ。骨人答へて曰く「我は是れ台峯東塔院の某なり。此に至りて死す。生平堅誓を起して法華六万部を誦せんとす。存日纔に半数にして夭す。願力抜けず。此に在して尚ほ経を誦する耳。今已に終殆(ちか)し。此に居すること久しからずして此を去り當に兜率の内院に生ずべし。睿、聞きおわって骨人を禮して去る。翌年又来るに苔骨を見ず。(釈書)。
・釈道命は藤の亞相道綱第一の男なり。少じて叡山に登り、慈恵に事ふ。法華を誦して他業なし。而も志専ら篤し。「命」寂って後、親友ありて「命」が生まれる處を祈求すること両三年、夢みらく大河の側に蓮池あり、「命」が舟に乗り手に経巻を把りて読むを見る。語りていわく「我れ、在世出家すと雖も三業を慎まず、多く禁戒を犯す。其の四天王寺を管せしとき僧祇物を犯す。如是の衆罪、浄土を得ず。然も経王の力に依りて悪趣に堕せず、此の蓮池に住して法華を誦す。二三年を過ぎて當に兜率に生ずべし。夙契忘れず我を思ふ事喜ぶべし。故に来りて告ぐる耳」と。夢覚めて感泣す。(釈書)。
(宇治拾遺物語 「道命、和泉式部の許に於いて読経し、五条の道祖神聴聞の事」
「今は昔、道命阿闍梨とて、傅殿(ふどの)の子に色に耽りたる僧ありけり。和泉式部に通ひけり。経をめでたく読みけり。それが和泉式部がり行きて臥したるけるに、目覚めて経を心をすまして読みける程に、八巻読み果てて暁にまどろまんとする程に、人のけはいのしければ、「あれは誰ぞ」と問いければ、「おのれは五条西洞院の辺に候ふ翁の候ふ」と答へければ、「こは何事ぞ」と道命いひければ、「この御経を今宵承りぬる事の、生々世々忘れがたく候ふ」といひければ、道命、「法華経を読み奉る事は常の事なり。など今宵しもいはるるぞ」といひければ、五条の斎曰く、「清くて読み参らせ給ふ時は、梵天、帝釈を始め奉りて聴聞せさせ給へば、翁などは近づき参りて承るに及び候はず。今宵は御行水も候はで読み奉らせ給へば、梵天、帝釈も御聴聞候はぬひまにて、翁参り寄りて承りて候ひぬる事の忘れがたく候ふなり」とのたまひけり。
されば、はかなく、さは読み奉るとも、清くて読み奉るべき事なり。「念仏、読経、四威儀を破る事なかれ」と、恵心の御房も戒め給ふにこそ。」。芥川龍之介は「道祖問答」でこのテーマを扱っており、道命は悟っていることになっている。)
・釈平忍は叡山尊意の徒なり。性潔白にして俗に染まず。専ら法華を持し他業なし。年八十餘、一日意にもうして曰く、「今日兜率の内院に往く、故に来りて告辞す」と、言已って起ち去る。意あやしんで使いを送る。使者帰りていわく、「忍已に逝す」と。臨終に門人に告げて曰く「大虚の中に妓楽あり、汝等聞くや否や。兜率天我を迎る也」と。言已って気絶ゆ。天慶元年也。(釈書)
・釈蓮入は伯耆大山寺に居して精修を勤む。寛弘年間長谷寺に詣じ、七日を期して誓て曰く「願くは大悲者我が来世の所居を示したまへ」と。第七夜夢みらく、一比丘殿帳より出でて曰く「此れより西南九里に勝地あり。汝彼に止て修練せば必ず兜率の内院に生ず」と。覚めて歓喜し即ち彼に至る。西方に光あり。夜夜この如し。一朝光の所に往くに大なる巌あり。蘚葉を去りて石面を払拭すれば弥勒三尊の像を彫る。其の刻畫奇妙にして殆ど人工に非ざる也。「入」は奇想を作して四衆に告げて精舎を勧建す。臨亡に果たして祥瑞あり。(釈書)。
・持経上人、本の名は祈親、七歳にして父を喪ひ、十三にして興福寺に投じて相宗を学ぶ。聡恵の誉あり。偶ま母の疾を省みて落髪す。母尋ねて死す。此れより法華を持して二親を薦む。時に持経者と称す。故を以て名く。行年六十、忽ちに自ら念じて言く、二親の間、我只一子、偏に愛憐を専らにす。報生の苦楽、恬として省みざれば豈に孝子の情ならんや。便ち長谷寺に詣で、一七日を期して恃怙(じこ・父母)の生所を索む。第三日の夜、夢みらく、或る人告げて曰く「西南に山あり、高野山金剛峯寺といふ。汝其れ彼に往け。必ず感知することを得ん」。乃ち指を以て西南を指す。其の指の端、一光を放つ。金剛峯寺の山川殿宇灼灼として目にあり。紀州に赴き已に高野山に至る。この山、弘法大師定後、今に至りて八十餘年、廃毀尤も甚だし。荊棘路に塞ぐ。親は榛莾(しんもう・群がり茂った草木)を披して塔所(大師廟所)に到る。祈求すること長谷寺の如し。一日忽眼根浄して都史の内宮を見る。庭上に三茎の蓮花あり。菩薩各の二花に坐す。一華いまだ開かず。
親は問て曰く「是の菩薩、誰とか為る」。曰く「此の二大士は汝が父母也。是れ汝が法華読誦の報なり。其の開かざるものは汝當に坐すべき耳み」と。親は野山の廃を見て身を修營に委す。幾ならずして榛莾(しんもう・群がり茂った草木)輪奐に帰す。金剛峯寺の再興は実に親の力也(釈書)。
(ウキぺデアに、「祈親上人定誉。天徳2年(958年)- 永承2年(1047年)。は、持経上人とも呼ばれる。俗姓河井氏。大和国葛城郡の出身。13歳で興福寺に入り法相宗を学ぶ。後に子島流祖真興に密教の灌頂を受ける。法華経への信仰が厚く、持経者である。両親の菩提を祈り(祈親)、法華経を読誦し、常に経を持っていたという(持経)。亡くなった両親の所在を知るため大和長谷寺を訪れ、観音像より霊告を受けて高野山に登る。当時は東寺との確執や落雷による火災などで高野山は荒廃していた。定誉は、独自に寒さを防ぐ方法を編み出すなどして山内に常住し、高野山の復興に努めた。弟子に明算がいる。高野山奥の院にある「祈親燈(貧女の一燈)」は、定誉が献げたものといわれ、現在まで消えずに燃え続けている。」)
・釈尊意、姓は丹生氏、平安城の人也。元慶三年台山に上る。十七にして落髪す。二十二にして坐す円珍を禮して戒を受け、一紀の間に台教を究む。又両部密法を増全に蘇悉地を干玄昭に享く。凡そ三部の諸尊の秘軌各々密語、多少無く皆一万遍を誦し、修法各一千坐、是の如く修練して屡奇妙を得。観音文殊金剛薩埵不動明王各慰誘を加ふ。天慶三年二月二十三日沐浴浄髪して弟子の恒昭に語って曰く「我日頃極楽に生まれんと欲す。今改めて兜率に昇る。闍毘(じゃび・火葬)の後厚く葬るべからず。只墳所において一石の柱を造して標と為して、来り見るものをして都史の因を結ばしめよ」と。二十四日疾なくして而も逝く。年七十五.(釈書)。
・明恵上人、諱は高辨、姓は平氏、紀州在田郡の人。父重国嘗って嘉應帝の衛兵曹為り。十許歳にして早く遊学を事とす。密乗を尊實に聞き、雑花を景雅に習ふ。十六にして上覚に就いて東大寺において剃落し受具す。十九歳にして興然阿闍梨に従って両部の密法を稟く。寛喜四年正月十五日の夜、弥勒の像に対して禅坐入観す。傍らの人之を看るに気息無きが如し。時に尊像の寶座の左の寶珠より忽ちに香煙を出だす。漸く上って雲の如し。其の像、譬ば天雲の中に在るが如し。是に於いて辨、又口中より白光を放つ。刻を移して定を出ず。諸徒に告げて曰く「我が期已に近し。便ち臨終の法儀を宣ぶべし」と。十九日の朝広く修学の始卒を説き、右脇にして臥す。又聲を挙げて「南無弥勒菩薩」と曰ふ。即ち寂爾として目を閉ず。面に微笑の貌あり。年六十。葬斂の間容色不変。奇馥竭き弗。(釈書)。
(明恵上人は承安3年(1173年)1月8日、平重国と紀伊国の豪族湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)でお生まれになっていますが8歳で父母を失い、神護寺に入り、叔父上覚に俱舎・法橋尊實に密教を、華厳院景雅に五教章を、尊印律師に悉曇字記等を学習。上覚に随って得度、東大寺戒壇院で具足戒を受け、19歳で勧修寺慈尊院興然から両部灌頂を受け、高雄に住し華厳を研修。密教の法流を栂尾流という。念仏批判の摧邪輪を著したことでも有名。
晩年は講義、説戒、坐禅修行に努め、光明真言の普及にも尽力。寛喜3年(1231年)には、故地である紀州の施無畏寺の開基として湯浅氏に招かれた。翌寛喜4年(1232年)1月19日、弥勒の宝号を唱えながら遷化。享年60。)
・日蔵上人、本名は道賢、洛陽の人。延喜十六年二月金峯山椿山寺に入り薙髪す。時に年十二。洛に帰って東寺に居し、密教を学ぶ。天慶四年秋、金峯山の岩窟において三七日を剋して食を絶ち真言の密法を修す。八月一日午時、修法の間忽ちに気息絶ゆ。その間種々の不思議の事を見る。中に於いて金峯の菩薩西南の方を指して兜率天を示したまふ。其の楼閣林池等の荘厳言を以て伸べがたし。其の中に聖寶・観賢等の諸僧羅列して蔵を引いて内院に入らしむ。楼閣の中に金色の妙蓮華あり。其の花の上に真金の光有り。正見すること能わず。是則ち慈尊の妙色身なり。光の中に聲ありていわく「汝時未だ至らず。早く本土に帰て釈迦の遺教に従って観修精進して放逸を行ずること勿れ。生涯終えて後宜しく我が天に生ずべし。(已上真言傳)。・
・阿闍梨琳賢は紀伊国那賀郡の人。俗性は平氏。良禅阿闍梨に附きて両部の灌頂を傳ふ。終に高野の検校に至る。堂舎を建立し佛経を写す。久安六年中旬小悩を受く。弥勒の像を安じ五色の幡を繫け手に印契を結び口に名号を唱へて気絶ゆ。而して存生の人の如し。月卿雲客礼拝を作し、緇素上下渇仰を致す云々。(已上真言傳)
(往生兜率密記巻下終)
経論章疏を纂じて先賢古徳に範りて略ぼ此の両軸を綴る。著すところ顕秘有と雖も意は皆秘奥に帰す。故に密記の號を樹つ。冀くは此の功徳に乗じて一切衆生と興に兜率に往生せんことを。
于時寛文十一年辛亥載春彼岸中日 南嶽沙門 尊海」