福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「般若心経講義・高神覚昇」を中心に・・2

2016-07-16 | 法話
第一講 真理まことの智慧



般若波羅蜜多心経  一切智に帰命し奉る(これは梵字心経の最初にある言葉です)



 心経の名前 ここに『般若心経』の講義をするに当りまして、最初にはしがきとして、『心経』の経題すなわち『般若心経』という名前について、お話ししておきたいと思います。さてこの『般若心経』は、普通には単に、『心経』と申しておりますが、詳しくいえば、『般若波羅蜜多心経』というのであります。いったい、一口にお経と申しましても、昔から八万四千の法門といわれるくらいで、仏教の聖典の中には、ずいぶんたくさんのお経があります。しかしその数あるお経の中で、この『心経』ほど、首尾の一貫した、まとまった、しかも簡単なお経は他にないのであります。『心経』は全部で、その字数はたった二百六十字しかありません。もっとも、私どもが日ごろ読誦どくじゅしております『心経』には、「一切」という文字がありますから、結局二百六十二字となりますが、すでに弘法大師も、
「文もんは一紙に欠け、行ぎょうは則すなわち十四、謂いうべし、簡にして要、約にして深し」(般若心経秘鍵です)
 といっているように、全くこんなに簡単にして明瞭なお経は決して他にないのであります。
 天下第一のお経 次にまた、その名前のよく知れ渡っているという点では、あの『論語』にも匹敵するのであります。そして論語が天下第一の書といわれているように、この『心経』もまた昔から天下第一の「経典」といわれているのであります。とにかく、仏教のお経といえば『心経』、『心経』といえば仏教を聯想するというほど、このお経は、昔からわが日本人とは、きわめて縁の深いお経なのであります。

 絵心経のこと 今日『絵心経えしんぎょう』といって、文字の代わりに、一々絵で書いた『心経』が伝わっておりますが、これは、文字の読めない人々のために、特にわざわざ印刷せられたものでありますが、それによっても、古来いかに広く、この『心経』が一般民衆の間に普及し、徹底しておったかを知ることができるのであります。ところで、今回お話し申し上げようと思う『心経』のテキストは、今よりちょうど一千二百八十余年以前まえ、かの三蔵法師で有名な中国の玄奘三蔵げんじょうさんぞうが翻訳されたもので、今日、現に『心経』の訳本として、だいたい七種類ほどありますが、そのうちで『心経』といえば、ほとんどすべて、この玄奘三蔵の訳した経本きょうほんを指しているのです。ところが、前もってちょっとお断わりしておかねばならぬ事は、平生ふだん、私どもが読誦している『心経』には、『般若波羅蜜多心経』の上に、「摩訶まか」の二字があったり、さらにまた、その上に「仏説」という字があるということです。学問上からいえば、いろいろの議論もありますが、別段その意味においてはなんら異なることがありませんから、このたびは玄奘三蔵の訳した経本によって、お経の題号なまえをお話ししてゆこうと存じます。

 書物の題とその内容 およそ「題は一部の惣標そうひょう」といわれるように、書物の題、すなわちその名前というものは、その書物が示さんとする内容を、最もよく表わしているものです。もっとも今日、店頭に現われている書物のうちには、題目と内容とが相応していないどころか、まるっきり違っているものも、かなり多くありますが、お経の名前は、だいたいにおいて、よくその内容を表現しているとみてよいのです。たとえば、経典のうちでも、特に名高いお経に、『華厳経けごんきょう』というお経があります。これはわが国でも、奈良朝の文化の背景となっている有名なお経なのですが、ちょうど『心経』を詳しく『般若波羅蜜多心経』というように、このお経を詳しくいえば、『大方広仏華厳経だいほうこうぶつけごんきょう』というのです。さてこのお経は仏陀ぶっだになられた釈尊の、その自覚さとりの世界を最も端的に表現しておるお経ですが、その「大方広」という語ことばは、真理ということを象徴した言葉であり、「華厳」とは、花によって荘厳しょうごんされているということで、仏陀への道を歩む人、すなわち「菩薩ぼさつ」の修行をば、美しい花に譬たとえて、いったものです。で、つまり人間の子釈尊が、菩薩の道を歩むことによってまさしく真理の世界へ到達された、そうした仏陀のさとりを、ありのままに描いたものが、すなわちこの『華厳経』なのであります。

 法華経のこと 
ところで、この『華厳経』といつも対称的に考えられるお経は『法華経ほけきょう』です。平安朝の文化は、この『法華経』の文化とまでいわれているのですが、この『法華経』は、くわしくいえば『妙法蓮華経みょうほうれんげきょう』でこれは『華厳経』が、「仏」を表現するのに対して、「法」を現わさんとしているのです。しかもその法は、妙法といわれる甚深微妙じんしんみみょうなる宇宙の真理で、その真理の法はけがれた私たち人間の心のうちに埋もれておりながらも、少しも汚されていないから、これを蓮華れんげに譬えていったのです。
 いったい蓮華は清浄な高原の陸地には生はえないで、かえってどろどろした、汚きたない泥田どろたのうちから、あの綺麗きれいな美しい花を開くのです。「汚水どろみずをくぐりて浄きよき蓮の花」と、古人もいっていますが、そうした尊い深い意味を説いているのが、この『法華経』というお経です。自分の家を出て他所よそへ「往ゆく」その時のこころもちと、わが家へ「還る」その気もち、真理を求めて往くそのすがたと、真理を把つかみ得て還るその姿、若々しい青年の釈尊と、円熟した晩年の釈尊、私はこの『華厳経』と『法華経』を手にするたびに、いつもそうした感じをまざまざと味わうのです。
 右のようなわけで、お経の名前は、それ自身お経の内容を表現しているものですから、昔から、仏教の聖典を講義する場合には、必ず最初に「題号解釈だいごうげしゃく」といって、まず題号なまえの解釈をする習慣ならいになっています。で、私も便宜上、そういう約束に従って、序論はしがきとして、この『心経』の題号なまえについて、いささかお話ししておきたいと存じます。

 般若ということ 
さていま『般若波羅蜜多心経はんにゃはらみたしんぎょう』という字の題を、私はかりに、「般若」と、「波羅蜜多」と、「心経」との、三つの語に分析して味わってゆきたいと存じます。まず第一に般若という文字ですが、この言葉は、昔から、かなり日本人にはなじみ深い語ことばです。たとえば、お能の面には「般若の面」という恐ろしい面があります。また謡曲うたいの中には「あらあら恐ろしの般若声はんにゃごえ」という言葉もあります。それからお坊さんの間ではお酒の事を「般若湯はんにゃとう」といいます。またあの奈良へ行くと「般若坂」という坂があり、また般若寺というお寺もあります。日光へゆくとたしか「般若はんにゃの滝たき」という滝があったと思います。こういうように、とにかく般若という語は、われわれ日本人には、いろいろの意味において、私どもの祖先以来、たいへんに親しまれてきた文字であります。しかし、この般若という言葉は、もともとインドの語をそのまま写したもので、梵語サンスクリットでいえばプラジュニャー、巴利パリー語でいえばパンニャーであります。ところで、そのプラジュニャーまたはパンニャーを翻訳すると、智慧ちえということになるのです。智慧がすなわち般若です。しかし、般若を単に智慧といっただけでは、般若のもつ持ち味が出ませぬから、しいて梵語の音をそのまま写して、「般若」としたのであります。こんな例は、仏教の専門語にはたくさんありますが、いったい一口に智慧といっても、その智慧には、いろいろな智慧があります。「智慧のある馬鹿に親爺おやじは困りはて」という川柳がありますが、あの智慧のある馬鹿息子むすこがもっているような、そんな智慧は決して、般若の智慧ではありません。元来、仏教ではわれわれ凡夫の智慧をば仏の智慧と区別して、単に識しきといっております。

 愚痴と智慧
 その識とはつまり迷いの智慧のことです。愚痴という智慧が、この識です。愚痴の痴はやまいだれに知という字ですから、つまり智慧が病気にかかっているわけです。したがって、それはもちろんほんとうの智慧ではありませぬ。いったいものの道理を、真に辨わきまえないから、いろんな悶もだえ、悩み、すなわち煩悩ぼんのうが出てくるのですが、愚痴は、つまりものの道理をハッキリ知らないから起こるのです。で、人間が仏陀になることを、識を転じて智を得るといっておりますが、それは結局、迷いを転じて悟りを開くということと同じ意味で、要するにわれわれ迷いの人間が、悟れる仏陀ほとけになるということです。ところで、ここにいう般若の智慧とは、決して愚痴といわれ、識といわれる、人間のもっているあさはかな智慧ではないのです。それは知らざるもの、眠れるもの、迷える人間の智慧ではなくて、知れるもの、目覚めたるもの、悟れる人の智慧です。それは宇宙の真理を体得した、仏陀(覚者)のもてる智慧です。真理の智慧、真理を悟った智慧、それがとりも直さず般若の智慧であります。

 ものの道理
 さてここで、一言申し添えておきたいことは、真理ということです。真理とはなんぞや? ということを、開き直って研究するとなると、たいへんめんどうな、むずかしいことになりますし、またそれを学問的に説明している余裕ゆとりもありませぬが、一言にして真理とは何かといえば、それはつまり、いつ、どこでも、何人も、きっと、そう考えねばならぬもの、それが真理です。
 むずかしくいえば、普遍妥当性ふへんだとうせいと思惟しい必然性とをもったものが真理です。時の古今、洋の東西を問わず、いつの世、いずれの処ところにも適応するもの、誰だれしもそうだと認めねばならぬものが真理です。古今に通じて謬あやまらず、中外に施して悖もとらざる、ものの道理、それが、とりも直さず真理です。西洋の諺ことわざに、「真理は時代の娘」という言葉がありますが、真理こそ、永遠の若さをもったものです。真理はまさしくいつの時代にも若鮎わかあゆのように溌剌はつらつとした若々しい綺麗きれいな娘です。創造し、活動して、止やまぬもの、それが真理です。けだし、永遠に古くして、かつ永遠に新しいもの、それが真理です。いや、永遠に古いものにして、はじめて永遠に新しいものだ、ということができるのです。

 真理といえば、真理についてこんな話があります。それはたしか、シルレルの書いたものだと思いますが、「蔽おおわれたザイスの像」という話です。真理への思慕 その昔、知識に餓うえた一人の青年がありました。彼は真理の智慧を求むべく、エジプトのザイスという所へ行きました。そしてそこで、彼は、一所懸命に真理の智慧を探さがし求めたのでした。しかし、求める真理の智慧は容易に索もとめ得られませんでした。ところが、ある日のこと、彼は師匠と二人で、静かな、ある秘密の部屋の中に坐すわったのでした。そこは白い紗しゃに蔽われた、一個の巨像が、森厳しんごんそのもののように立っていたのです。その時、青年は突然、師匠に対むかって、この巨像が何者であるかを尋ねました。
「真理!」
 それが師匠の答えでした。これを聞いた青年は、おどろき、かつ喜びました。そして、思わず、
「つね日ごろ、自分が尋ね索めている真理は、ここに隠されていたのか」
 と叫びました。
 その時、師匠は厳おごそかに青年にいいました。
「神自らが、この蔽いを、脱ぬがせ給うまでは、決して、人間の浄きよからぬ罪の手で、取り去ってはならぬ」
 と。しかし、思いに悩んだ、その青年は、諦あきらめても、あきらめても、容易にそれを、あきらめきれなかったのです。
 その夜、深更、ひそかに、彼はかの巨像が立てられてある部屋へやの中へ忍びこんで行きました。そこには、円まる天井の高い窓から、蒼白あおじろい月の光がさして、白い紗に蔽われた森厳な巨像は、銀色に照らされていました。
 幾度も、幾度も、ほんとうにいくたびも、ためらった後、とうとう彼は意を決して、その蔽いを、とり去ってみたのです。
 みたものは、果たしてなんであったでしょうか? 翌朝あくるあさ、人々は白い紗に蔽われた巨像の下に、色青ざめて横たわる一人の青年の、冷たい屍しかばねを見出しました。かの青年がみたもの、かの若者が経験したもの、彼の舌は、永遠にそれを語らなかった。
「正しからざる方法によって、真理を捉とらえんとしても、それは結局、無駄むだな骨折りに過ぎない」
 と、最後に詩人は教えています。
 けだし世に、真理を尋ね求める人はきわめて多い。しかし、それを探し求め得た人は、またきわめて少ないのです。私どもは、決してかの青年であってはならないのです。正しからざる方法によって、ザイスの巨像を見んとした、あの若者であってはならないのです。私どもは、どこまでも、真理への道を辿たどる、敬虔けいけんな求道者でなくてはなりません。しかも、真面目まじめに、真理を思慕し、探究するものによってのみ、真理ははじめて把握はあくし得られるのです。

 道理と智慧
 話がつい横道へ外それましたが、般若の智慧を、仏教では、実相と観照との二つの方面から説明しております。実相とは真理の客体で、観照とは真理の主体です。何人も認めねばならぬ、ものの道理と、それに合致する智慧が、つまりこの実相と観照との二種の般若です。そして、その般若の道理と智慧とを、文字によって示したものが、すなわち文字般若もじはんにゃです。いずれにしても、これからお話し申し上げようとする『心経』は、要するに永遠に古くしてしかも永遠に新しい般若の真理を、雄弁に且つ力強く主張しているお経なのです。いつ、どこでも、何人も、必ずそう信ぜねばならぬ、不朽の真理を、きわめて直截ちょくせつ簡明に説いているのが、この『心経』です。般若の哲学、それは決して古いインドの哲学ではありません。般若の宗教、それは断じて、亡ほろびた過去の宗教ではないのです。昔も今も、今日も明日も、いや未来永劫えいごうに光り輝く、人生の一大燈明なのであります。
 つまらぬものは一つもない ところで、いまこの般若の智慧によって、この現実のわれわれの世界を眺ながめまするならば、事々物々、一つとして役に立たぬつまらぬものはないのです。あの「つまらぬというは小さき智慧袋」という一句が、きわめて巧みに物語っているように、真理への眼が開けたものにとっては、この世界につまらぬものは一つとして存在していないのです。「医王の眼には百草みな薬」です。つまらぬというのは、ものがつまらぬとか、話がつまらぬというのではなくて、つまり、おのれの智慧袋が小さいからなのです。一たび般若という、大きい智慧によって観照するならば、つまらぬどころか、いずれもみな貴い真理の表われです。

ロングフェローの「建築師」という詩の中にこんな言葉があります。
「世の中に、無用のものや、卑しいものは、一つもない。
すべてのものは、適所におかれたならば、最上のものとなり、
ほとんど無用のごとく見えるものでも、
他のものに力を与えるとともに、その支ささえともなる。
私たちの建築に供給するために、時の中には、材料がいっぱいになっている。
私たちのもつ今日や明日は、
私たちの建築の有力な材料である。」

たしかに味わうべき言葉だと思います。
 平凡な一日と貴重な一日 今日や明日という日は、それこそなんでもない平凡な一日です。しかし、その平凡な一日が集まって、私どもの人生を作っているのです。したがって、つまらぬどころか、後あとにも先にもない貴い一日です。昨日を背負い、明日を孕はらめる、尊い永遠の一日です。結局、一日をつまらぬ一日にするか、貴い一日にするか、それはつまり私どもお互いの心持です。心のもち方です。ものそのものが、つまらぬのではなくて、それを見る、それを受けとる智慧袋が小さいわけです。この『心経』に織りこまれている、般若の智慧によるならば、世の中のもの、皆すべてつまらぬものはないのです。いやすべては互いに裏となり表となり、陰かげとなり、陽ひなたとなって生かし、生かされつつある貴い存在ものなのです。まことに、「つまらぬというは小さき智慧袋」です。私どもは、少なくとも私どもがお互いに誰でもが持っている霊性、すなわちこの般若の智慧を磨みがくことによって、一切のものの生命いのちを、より尊く、よりりっぱに活いかしてゆかねばうそだと思います。

 波羅蜜多ということ 
次に波羅蜜多はらみたということは、般若と同様に、梵語の音そのままを写したものでありまして、原語はパーラミターというのです。ところで、いまそれを翻訳いたしますと、彼岸に到いたる、すなわち「到彼岸」という意味になるのです。しかし今日一口に彼岸というと、誰でもすぐにあの「暑さ寒さも彼岸まで」という春秋二季の彼岸を思い起こすのです。一年じゅうで一ばんよい時候、春と秋との皇霊祭(春分の日・秋分の日)を彼岸の中日として、その前後三日の間、合わせて七日間を彼岸と名づけておりますが、世間では、時候のよい、暮らしよい時が彼岸だと考えています。しかし彼岸の七日間は時候がよいというので、遊びまわったり、物見遊山に出かけるときではないのです。お寺参りをするとか、お墓まいりをするとか、つまり祖先のおまつりをして祖先の御恩を偲しのんで、それを感謝するとともに、自分の生活を静かに反省して修養すべき時が彼岸です。「きょう彼岸さとりの種を蒔まく日かな」で、菩提さとりのたねをまく日が彼岸です。いったい、仏教では、この現実の世界、すなわち迷える私たちの不自由な世界をば、この岸、すなわち「此岸しがん」といいます。これに対して、理想の世界、悟れる自由な世界を称して、かの岸、すなわち「彼岸ひがん」といっています。ゆえに波羅蜜多とは、つまり、此岸より彼岸へ渡る事、つまり人生の目的地ゴールへ入ること、ゴール・インすることです。したがって、古来、簡単にこれを「度ど」とも訳しております。度とは「わたる」ということで、この岸から向こうの岸へ渡ることです。ところで、仏教の理想さとりの世界、すなわち彼岸とは、つまり仏陀ぶっだの世界ですから、彼岸へ到達するとか、彼岸へわたるとかいうことは、結局、仏となるということです。ゆえに彼岸ということは、要するに、仏教の理想、目的をいい表わしたことになるのであります。よく私どもは「仏教とはどんな教えか」と質問されることがありますが、その時私は簡単に、「仏教とは仏陀の教えだが、その仏陀の教えとは、つまり人間が仏になる教えだ」と答えています。仏となる教え、成仏じょうぶつの教え、それが仏教です。ところで、この此岸から彼岸へ渡る場合に自分独ひとりで渡るか、それとも大勢の人々といっしょに渡るかということにおいて、自然ここに、「小乗しょうじょう」と「大乗だいじょう」との区別が生じてくるのです、小乗とは小さい乗り物、大乗とは大きい乗り物のことです。早い話が、自転車は一人しか乗れないが、汽車や汽船になると、何百人何千人がいっしょに乗って、目的地へ行く事ができるのです。小乗と大乗との関係も、ちょうどそれと同じことです。少なくとも仏教の根本目的は「我等と衆生しゅじょうと、皆共に仏道を成じょうぜん」ということです。「同じく菩提ぼだい心を発おこして、浄土へ往生せん」ということです。したがって小乗は単数、大乗は複数です。小乗は「私」ですが、大乗は「我等」です。小乗は自利、大乗は自利、利他です。自利とは自覚、利他とは覚他です。自覚は当然覚他にまで発展すべきです。覚他にまで発展しない自覚では、ほんとうの自覚ではありません。したがって小乗より大乗の方が、ほんとうの仏教であり、民主主義デモクラシーもつまりは大乗主義であるということはいうまでもありません。

 心経の二字について 
次に『心経』ということでありますが、ここで「心」というのは、真髄とか、核心とか、中心とか、いったような意味で、つまり肝腎要かんじんかなめということです。ところで、いったいなんの核心であるか、なんの中心であるか、という事については、いろいろと学者の間にも議論がありますが、要するに、この『心経』は、あらゆる大乗仏教聖典の真髄であり、核心だというのです。したがって『般若心経』という、この簡単なる経典おきょうは、ただに『大般若経』一部六百巻の真髄、骨目であるのみならず、それは実に、仏教の数ある経典のうちでも、最も肝腎要かなめの重要なお経だということを表わしているのが、この「心経」という二字の意味です。
 経ということ それから、最後に「経」という字でありますが、元来この経とは、梵語のスートラという字を翻訳したもので、それは真理に契かない、衆生ひとびとの機根せいしつに契かなう、というところから、「契経かいきょう」などとも訳されていますが、要するに聖人の説いたものが経です。すなわち中国では昔から、聖人の説かれたものは、つねに変わらぬという意味で、「詩経」とか、「書経」などといっているのですが、インドの聖人、すなわち仏陀ほとけが説かれたもの、という意味から、翻訳の当時、多くの学者たちが、いろいろ考えたすえ、「経」と名づけたのであります。
 さとりへの道 これを要するに、『心経』すなわち『般若波羅蜜多心経はんにゃはらみたしんぎょう』というお経は、「人生の目的地ゴールはどこにあるか」「いかにしてわれらは仏陀の世界へ到達すべきか」「仏陀の世界へ到達した心境は、いったいどんな状態にあるのか」ということを、きわめて簡単明瞭めいりょうに、説かれたお経であります。こうした意味で、昔から、この『般若心経』をば『智度経ちどきょう』と訳されていますが、とにかく、この『心経』は決して抹香まっこう臭い、専門の坊さんだけがよむ、時代おくれのお経では断じてありません。ほんとうの真理とは、真理の智慧とは、どんなものであるかを、端的に教えてくれる、永遠に古くして、しかも新しい聖典が、この『心経』です。少なくとも真に人生に目覚めざめ、「いかに生くべきか」の道を考えるならば、何人もまず一度はどうしてもこの『心経』を手にする必要があります。ほんとうに、私どもの世の中に、こんなに簡単にして要を得た聖典は、断じて他にないと思います。私どもは『心経』を契機きっかけとして、人生とは何か、われらは、いかに生くべきかの道を、皆さんといっしょにおもむろに味わってゆきたいと存じます。
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