福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「般若心経講義・高神覚昇」をもとに・・3

2016-07-17 | 法話
第二講 語るより歩む



観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空度。一切苦厄。



 般若の哲学 
これから申し上げるところは、「観自在菩薩かんじざいぼさつ、深じん般若波羅蜜多を行ぎょうずる時、五蘊うんは皆空なりと照見しょうけんして、一切の苦厄くやくを度どしたもう」という一段であります。漢字の数からいえば、タッタ二十五字しかありませぬが、この二十五字が、『心経』全体の中心になっておるのでありまして、二百六十余字の『心経』は、結局、この最初の二十五字をば、あるいは縦に、あるいは横に、内から外から、いろいろな方面から、説明したものにほかならぬのであります。(御大師様の般若心経秘鍵でもここが結論部分とされています)
 観音さまはどんな仏か さてまず「観自在菩薩」と申しますのは、観世音すなわち観音さまのことです。観音さまは、自由自在に、世音すなわち世間の声、大衆の心の叫び、人間の心持を観察せられて、われわれの身の悶もだえ、心の悩みを、救い給う仏でありますから、梵語のアバローキティシュバラという原語を訳して、玄奘三蔵は「観自在」といっているのであります。すなわち梵語の「アバローキタ」という字は観るという意味、「イーシュバラ」は、自由または自在という意味です。いったい私どもが、ものをみるという場合には、「見、観、視、察」という四つの見方があるときいています。ところで、その中で見という字は、肉眼でものをみること、観という字は、観音さまの観の字で、心眼でものをみることです。したがって観察するということは「心の眼でもってものをよくみる」ということでありまして、実はこの観察ということによって、私どもはもののほんとうの相を、ハッキリ知ることができるのです。その昔、宮本武蔵は『五輪書』という本のなかで「見の眼と観の眼」といっておりますが、武蔵によれば、この観の眼によってのみ、剣道の極意ごくいに達することができるのでありまして、彼は剣道において、観の眼、すなわち心の眼の修業が、いちばんたいせつだということを力説しております。しかし、それは単に剣道のみではありません。どの商売でも、どんな学問でも、何につけても、いちばんたいせつなのは、この「観の目」です。心の眼です。有名なカントが、「哲学する」といっているのも、つまりはこの観の目でみることです。スピノーザが「永遠の相において」ものをみよというのもそれをいったものです。私どもは平生、なんの気なしに、見てみるとか、聞いてみる、とかいうことばを使っておりますが、その見てみる、聞いてみるという、その「みる」というのは、つまり心眼のことです。心の眼でものをみることです。「心ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」というのは、心の眼のないこと、心の耳をもたないことをいったのです。ですからこの心眼を開けばこそ、私どもは、形のない形が見えるのです。心耳をすませばこそ、声なき声が聞こえるのです。
俳聖芭蕉のいわゆる「見るところ花にあらずということなし、おもうところ句にあらざるなし」(吉野紀行)
 というのはまさしくこの心の眼を開いた世界です。心の耳をすまして聞いた世界です。つまり観察するという心持でもって、大自然に対した芸術の境地であります。ところで、いま観世音は実にこの心の眼を、大きく見開いて、一切を観察するとともに、また心の耳をすまして、一切の音声を聞かれた、いや、現に聞かれつつあるのです。そして慈愛のみ手を一切の人々のまえにさしのべられつつあるのです。
 
 さてこの観世音菩薩が、「深般若波羅蜜多じんはんにゃはらみたを行ぎょうずる時」というのは、どんな意味であるかというに、すでに申し上げておいたごとく、それは、観音さまが甚深微妙じんしんみみょうなる般若の宗教を実践せられたということで、観世音は、単に心の眼を見開いて、般若の哲学を認識せられたのみでなく、進んで般若の宗教をば親しく実践されたのです。ところで、この「深」という文字ですが、この深という字については、昔からいろいろむずかしい解釈もありますが、要するに深は浅の反対で、深遠とか、深妙とかいう意味です。観音さまの体得せられた、般若の智慧ちえの奥ふかいことを形容したことばだと考えればいいのです。したがってそれは私ども人間のもっているような、あさはかな智慧ではなく、もっともっと深遠な智慧、すなわち「一切は空なり」と照見した真理の智慧を指していったのです。
 それから、ここでお互いがよく注意しておかねばならぬ文字は、「般若波羅蜜多を行ずる」という、この「行ぎょう」ということばです。これがたいへん重要なる意味をもっているのです。あえてゲーテを待つまでもなく、いったい宗教の生命は「語るよりもむしろ歩むところにある」のです。いや宗教は、語るべきものではなくて、歩むべきものです。しかも、その歩むというのは、この「行」です。行ずるということが、歩むことであり、実践することなのです。いったい西洋の学問の目的は知るということが主眼ですが、東洋の学問の理想は行なうことが重点です。すなわち知るは行なうのはじめで、知ることは行なわんがためです。しかも行なってみてはじめて、ほんとうの智慧ともなるのです。有名な『中庸』という本に「博ひろく之を学び、審つまびらかに之を問い、慎んで之を思い、明らかに之を辨じ、篤あつく之を行う」という文句ことばがありますが、けだしこれはよく学問そのものの目的、理想を表わしていると思います。
 ところで観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行ずるということは、つまり般若の智慧を完成されたということですが、それは要するに六度の行を実践されたことにほかならぬのです。六度とは六波羅蜜はらみつのことで、布施ふせ(ほどこし)と持戒じかい(いましめ)と忍辱にんにく(しのび)と精進しょうじん(はげみ)と禅定ぜんじょう(おちつき)と般若はんにゃ(ちえ)でありますが、まえの五つは正しい実践であり、般若は正しい認識であります。
 智目と行足 古来、八宗の祖師といわれるかの有名な竜樹りゅうじゅ菩薩は、『智度論』という書物の中で、「智目行足ちもくぎょうそく以て清涼せいりょう池に到る」といっておりますが、清涼池とは、清く涼しい池という文字ですが、これは迷いを離れた涅槃さとりの世界を譬たとえていったものです。この涅槃ねはんの証さとりへ達するには、どうしても、この智目と行足とが必要なのです。智慧の目と、実行の足、それは清涼池さとりへの唯一の道なのです。ですから、昔から仏教では、この智目行足ということを非常に重要視しています。ところで、その「智目」というのが智慧の眼(般若)のことです。つまり正しき認識、理論ということです。次に「行足」とは、実行(五行)です。正しき実践ということです。いったい、実行の伴わない理論は、灰色でありますが、同時にまた、理論の伴わぬ、いわゆる筋のたたぬ実践も、またきわめて危険です。智目と行足を主張する、仏教の立場は、あくまで正しき理論と実践との高次的な統一を主張するものであります。したがって仏教における哲学と宗教とは、要するに、この智目と行足との関係にあるわけです。ゆえに、ほんとうに、自ら仏教を学び、しかも行ずるものにして、はじめて仏教の真面目を認識し把握はあくすることができるのです。かようなわけで、仏教では一口に、智慧と申しましても、これに三種あるといっております。聞慧もんえと思慧しえと修慧しゅうえとの三慧がそれです。すなわち第一に聞慧というのは、耳から聞いた智慧です。きき噛かじりの智慧です。智慧には違いありませんが、ほんとうの智慧とはいえません。次に思慧とは、思い考えた智慧です。耳に聞いた智慧を、もう一度、心で思い直し、考え直した智慧です。思索して得た智慧です。すでにいったごとく、カントは、教えている学生にむかって、つねに哲学することの必要を叫びました。「諸君は哲学を学ぶより、哲学することを学べ。私は諸君に哲学を教えんとするのではない。哲学することを教えるのだ」といったと、伝えておりますが、そのいわゆる哲学することによって得た智慧が、この思慧に当たると思います。だから思慧は哲学の領分です。

次に修慧とは、実践によって把握せられた智慧です。自ら行ずることによって得た智慧です。したがってそれは宗教の領分です。語るよりも歩むというのがそれです。その昔、覚鑁かくばん上人(興教大師)は、「もし自分のいうことが、うそいつわりだと、思うならば、自ら修して知れ」
 といっていますが、その修するというのが、この修慧です。だから三慧のうちで、この修慧がいちばんほんとうの智慧です。


耳にきき心におもい身に修せばいつか菩提(さとり)に入相の鐘


 という古歌は、まさしくさとりへの道をうたったものです。
 かように、智慧には三種の区別があるように、私どもが平素、お経をよむ場合でも、いや、単にお経のみにかぎったことでもありませんが、ただ口だけでよむのではだめです。いわゆる「論語よみの論語知らず」ですから、それを心でよみ、さらにそれを身体でよまねばなりません。すなわち身読し、色読する必要があるのです。その昔、日蓮上人は『法華経ほけきょう』を幾度なく色読せられたといっていますが、『法華経』を読誦どくじゅし、信仰する人は、ぜひとも『法華経』を口でよむばかりでなく、心でこれをよみ、さらにこれを身体で実行する、いわゆる「法華の行者」にならねばウソであります。『心経』においても、それは同様です。われらは、まさしく『心経』を、心読し、さらにこれを身読してゆきたいのです。般若の哲学を知るだけでなく、進んで般若の宗教を実践してゆきたいのであります。

 さて、観自在菩薩が、般若の宗教を体験せられたその結果は、どうであったかといいますと、「五蘊うんはみな空なりと照見しょうけんせられて、ついに一切すべての苦厄くるしみを度せられた」というのであります。すなわち一切の苦というものを滅して、この世に理想の平和な浄土を建設されたというのです。したがって、五蘊は皆空、すなわち一切のものみな空だということが、つまり観自在菩薩の体験さとりの内容たる般若の真風光であるわけです。ところがここでめんどうな、むずかしい文字は、五蘊という語(ことば)と、空ということばです。まず五蘊という語からお話しいたしますと、このことばは、梵語のパンチャ、スカンダーフという語を、翻訳したものでありまして、パンチャとは、五つという数字です。スカンダーフとは「あつまり」という意味であります。
 ですから古来、仏教学者は「蘊」という字を積集しゃくしゅうの義、すなわち、つみあつめるという意味に解釈しています。しかも、その五つの集まったものは、ジット「静止の状態」にあるのではなくて、みんな始終動いているのです。スカンダーフを梵語学者は、「動いている状態」と翻訳していますが、これは非常に面白いと思います。
 しからば、その五蘊とは、いったいなんであるかというに、その名前は、この次にお話しする所に出てまいりますが、色と受と想と行と識とです。ところで、まず、その色とは「いろ」という字でありますが、それは決して、あの「いろ」、「こい」のエロチックないろではありませぬ。すべて仏教では、形ある物質のことは色といっております。丸とか、四角という形も色で、これを形色といいます。青いとか、赤いとかいう色、これを顕色といいます。要するに物質的存在はことごとく色であります。次に受と想と行と識とは、物質に対する精神、物にたいする心をいったものでありまして、今日の心理学上の語でいえば、感情、知覚、意志、意識に当たりますから、つまりこれらは、形のない精神の作用はたらきを四つにわけたものです。しかもこの精神作用のうちで、識が中心ですから、これを心王といっています。これに対して他の受、想、行は、意識の上の作用はたらきですから、これを心所といっています。いずれにしてもそれはわれらの主観的な精神作用を、四種に分類したものです。したがって五蘊うんとは、要するに、形のあるものと、形のないもの、すなわち有形の物質と、無形の精神との集合あつまりを意味するもので、仏教的にいえば「色」と「心」、つまり色心の二法となるわけです。この場合、「法」とは存在という意味です。ゆえに物を中心として、世界の一切を説明せんとする唯物論も、心を中心として、世界のすべてを眺ながめんとする唯心論も、いずれも偏見で、共に仏教のとらざる所でありまして、主観も客観も、一切の事々物々、みなことごとく、五蘊の集合によってできているというのが、仏教の根本的見方でありますから、いわゆる物心一如、または色心不二の見方が、最も正しい世界観、人生観である、ということになるわけであります。

 空ということ
 次に「空」ということばでありますが、これがまた実に厄介やっかいな語ことばで、わかったようでわからぬ、わからぬようでわかっている語であります。ただ今、皆さんに対むかって、私が、かりに、一と一を加えると、いくつになりますか、と問うたとしたら、キット皆さんは「なんだ馬鹿馬鹿ばかばかしい」といって御立腹になりましょう。しかし、いったい、その一とはなんですか。一と一とを加えると、なぜ二になるのですか、というふうに、一歩進んでお尋ねした時、果たしてどうでありましょう?
 私のただ今ペンをとっている書斎には、机があり、座ぶとんがあり、インキ壺つぼがあり、花瓶などがあります。いずれもこれはみな一です。しかし、机が一で、花瓶が一でないとはいえないのです。机が一なれば、花瓶も一です。かくいう私も一です。この私の書斎も一です。東京も一です。日本も一、世界も一です。だから、改まっていま「一とはなんぞや」ということになると、非常に厄介になってくるのです。しかし、ここにあるこの花瓶と、寸分違わぬ同じ花瓶は、世界広しといえども、この花瓶以外には、一つもないのですから、これはタッタ一つの花瓶です。かくのごとく世界のものはすべて皆タッタ一つオンリー・ワンの存在です。だから、もしも、この青磁の花瓶と同じ花瓶が、もう一つほかにあったら、二つになるのですが、事実はないのです。したがってなにゆえに、一と一とを加えると二となるか、というきわめて簡単なわかりきった問題でも、こうなると非常にむずかしくなるわけです。あの最も精密なる科学、といわれる数学でさえ、私どもにはすでにわかったものとして、「なにゆえに」ということは教えてくれないのです。いや「一とは何か」となると、それを説明し得ないのです。
 私の友人に辻正次という数学の博士がおります。私は試みに、辻博士に「一とは何か」と聞いてみたことがあります。ところが、博士のいわく、「数学では、一とはすでにわかったもの、として計算してゆくのだ」と答えましたが、しかし、たとい一とはわかったもの、として計算していっても、やはり一とは何か、ということを、説明してほしいのです。いちばん安心してよい数学が、こんな調子であります。いわんや、他の科学においてをや、ナンテ申しますと、天下の科学者から、エライお小言を頂戴ちょうだいすることになるかも知れませんが、とにかくわかったもの、「自明の理」と思っていることでも、いざ説明、となると容易に説明し得ないのであります。
 公開せる秘密 さすがに詩人ゲーテです。一プラス一、それは「公開せる秘密エッフェントリッヒゲハイムニス」だといっているのです。私どもは、ただそれを神秘的直観、宗教的直観によってのみ、知ることができるといっているのですが、公開せる秘密とは、まことにうまいことをいったものです。宗教的直観によるのだという語は、ほんとうに味のある、意味ふかい言葉だと存じます。いったい、私どもお互い人間のもつ、言葉や思想というものは、完全のようで実は不完全なものです。思うこと、いいたいこと、それはなかなか思うように話すことができないものです。最も悲しい世界、最も嬉うれしい境地というものは、とうていありのままに、筆や口に、表現できるものではありません。イヤ、筆にはまだ、どうとも書けましょうが、言葉では、とても思いのままを、率直に、他人につたえることはできないのです。

 文殊と維摩の問答
 ところで、これについて想おもい起こすことは、あの『維摩経』にある維摩居士ゆいまこじと文殊菩薩もんじゅぼさつとの問答です。あるとき、維摩が文殊に対して、不二の法門、すなわち真理とはどんなものか、と質問したのです。その時、文殊菩薩は、こう答えています。
「不二の法門は、私どもの言葉では、説くことも、語ることもできないものです。真理は一切のわれわれの言葉を超越しています」
 そこで今度は、反対に文殊菩薩が、維摩居士に同じく、不二の法門とはなんぞや? と反問しました。すると、維摩はただ黙って、何も答えなかったというのです。
「時に維摩、黙然として、言無し」
 と、『維摩経』に書いておりますが、黙然無言の一句こそ、実に文殊への最も明快な答えだったのです。さすがは智慧の文殊です。
「善いかな、善よい哉かな、乃至ないし、文字語言あることなし。これ真に不二の法門に入る」
 とて、かえって維摩の「黙」を歎称しているのです。古来、「維摩の一黙、声雷こえらいのごとし」といっておりますが、この黙の一字こそ、非常に考えさせられる言葉だとおもいます。
 鳴かぬ蛍 「恋にこがれて鳴く蝉せみよりも、鳴かぬ蛍ほたるが身を焦がす」といいます。泣くに泣かれぬといいますが、この境地が最も悲痛な世界です。涙の出ない涙こそ、悲しみの極みです。あえて真理にかぎらず、すべてのものごとについても、不完全な私どもの言葉では、とうていものの「真実」、「実際」をありのままに表現することはできないものです。

 一杯の水
 「一杯の飲みたる水の味わいを問う人あらば何とこたえん」です。自分自ら飲んでみなければ、水の味わいもわかりません。うまいか、辛いか、甘いかは自分で飲んでみなければ、その味はわからないのです。「まず一杯飲んでごらん」というより方法がありません。あの有名な『起信論』に「唯証相応ゆいしょうそうおう」(唯ただ証とのみ相応する)という文字がありますが、すべてさとりの世界は、たださとり得た人によってのみ知られるのです。しょせん、さとりの世界のみではなく、一切はたしかに「冷煖自知れいなんじち」です。冷たいか暖かいかは自分で知るのです。ちょうど、子を持って、はじめて子を持つことの悩み、欣よろこびがわかるように、私どもは子をもって、親の恩を知ると同時に、子の恩をも知ることができるのです。三千世界に子ほどかわいいものがないということを知らしてくれたのは、全く子の恩です。自己を忘れて子供をかわいがる。その無我の心持、利他の喜びを、教えてくれたのは、ほんとうに子供のおかげです。全くうき世のこと、すべて唯証相応です。自ら体験しないと、ほんとうの味がわかりません。
 苦労人の世界 一度も苦労したことのない人には、苦労人のもつ心境は少しもわかりません。入学試験に落第したことのない人には、とうてい落第した人の、悲痛な、やるせない心持がわかろうはずはありません。苦労した人のみ、苦労した人を慰め、導き、教えることができるのです。しかも、その慰めは決して言葉ではありません。心持です。気もちです。その態度です。黙って手を握る、それでよいのです。甘い言葉や、美しい言葉では、とうてい傷ついた人の心を、救うことはできないのです。
 ごく親しい仲のよい友だちが久しぶりで偶然出逢であいます。そんな時には、いろんな、めんどうな御無沙汰ごぶさたのおわびや、時候の挨拶あいさつなどはありません。「ヤア」「ヤア」といいながら、互いに堅く手を握り合う。それでよいのです。眼が口ほどに、いや口以上にものをいうのです。その「ヤア」という一言で、平素の御無沙汰やら、時候の挨拶は、みんなスッカリ解消してしまっているのです。

 空の一字
 話がつい横道にそれましたが、『心経』の空という一字の裡うちには、実に千万無量のふかい意味が、ふくまれているのです。有名なアインシュタインも空一元論を唱えています。たしか宗教哲学者オットーも、宗教の極致は空だと説いています。剣聖宮本武蔵も「空の一字を知れ」といって、門人を誡いましめておりますが、空という一字のなかには、いろんな複雑な、そして深遠な、哲学も宗教も、ことごとく織りこまれているのです。しかもその「空」は仏教のエキスです。したがって空という文字を説明するとなると、なかなか容易なことではありません。しかもその甚深じんしんなる空を、観自在菩薩かんじざいぼさつは、親しく体験せられたのです。そして人生のあらゆる苦悩なやみを克服することによって、苦悩くるしみのない浄土を、この世に、この地上に建設されたのです。したがって、私どもも人生の苦悩を越えて、浄土に生まれんとするならば、どうしても、観音さまのように、空を知らねばなりません。如実に、空のもつ深い意味を認識しなければなりません。空を掴つかむことこそまさしく人生の勝利者です。けだし、空をほんとうに知るもの、真に「空に徹するもの」こそ、それはまさしく生身の活いきた観音さまです。かかるがゆえに、私どもは、少なくとも、自分の姿において、観自在菩薩を見出すとともに、観自在菩薩において、自己のほんとうの姿を見出さねばならぬものであります。空の意味についてのくわしい説明は、次の講に改めて申し上げることにいたします。
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