占察善惡業報經(全巻書き下し)
1,はじめに
占察善惡業報經は六世紀に造られた偽経とされます。しかしなかなか面白いお経で真正面から占いの方法を説いています。もっともっそれは大乗を求める為という口実をつけてはいますが。巻上ではお地蔵様の信仰を説き、下巻では占いの方法を説いています。これを概説しておくと、占いの方法は木輪相といい、木を小指ほどに刻み両端を尖らせ、これを投げて行者の過去の業を占うというものです。これに三種あります。
第一輪相は前世の所作の善悪を占う。第二輪相は前世の業の久近・強弱を占う。第三輪相は三世の中での受る結果を占うもの。
第一輪相のやり方は、10個の輪を作りそれぞれに十善の名を書き入れ一つの善が一の輪の一面にあありその裏に十悪それぞれを書き入れておき地蔵菩薩の名等をお唱えして投げる。
第二輪相のやり方は、第一と同じ木輪を使うが書き込む内容は身口意それぞれについて占うため二つの輪を用意。各各の輪の第一面には一本の長い線を書き入れ第二面には短い線を書く。第三面には長い線を深く刻む。第四面には短い線を浅く刻む。線は善を刻まれたものは悪を意味する。線の長短は久近、強弱を意味する。この第二輪相は第一輪相の結果を受けて行われ、第一輪相で悪口がでれば口業の輪によりその久近、強弱を占う。第三輪相では六の輪を使用する。これに123・456・789・101112・131415・161718を書き入れ各輪の三面に記入、一面はあけておく。これを投げて合計の数が占いの結果となりその百八十九種を解説している。
2,占察善惡業報經卷上 出六根聚經中 天竺三藏菩提燈譯
如是我聞。一時婆伽婆一切智人、王舍城耆闍崛山中に在して神通力を以て廣博嚴淨無礙道場を示し、無量無邊の諸大衆と倶なりき。甚深根聚法門を演説す。爾時、會中に一菩薩有り。堅淨信と名く。坐より起ち衣服を整へ偏袒右肩合掌して白佛言「我今此衆中において問ふ所あらんと欲す。世尊に諮請す。願くは聽許を垂れたまへ」。佛言「善男子、汝の所問に随って便ち之を説くべし」。堅淨信菩薩言く「佛の先に説ける如く、若し我れ世を去りて正法滅後、像法盡きなんとし末世に入るに及んで如是の時、衆生の福薄ふして、諸の衰惱多し。國土數しば亂れ災害頻りに起る。種種の厄難怖懼逼擾せん。我諸弟子は其の善念を失ひ、唯だ貪瞋嫉妬我慢を長ず。設へ像似に善法を行ずる者有れども、但だ世間の利養名稱を求め之を以って主と爲す。專心に出要法を修すること能はず。爾時衆生、世の災亂を覩て心常に怯弱にして己身及び諸親屬の衣食の躯命を充養すること得ざることを憂畏す。此の如くの等衆の多くの障礙因縁の故を以ての故に、佛法中に於いて鈍根少信、得道の者極少。乃至漸漸三乘中において信心成就する者も亦復た甚だ尠なし。所有る世間の禪定を修學し、諸の通業を発し、自ら宿命を知る者は次に轉た有ること無し。如是に後に於いて末法中に入って經ること久しくして得道し信禪定通業を獲るなど一切全く無けん。我今爲此の未來の惡世像法の盡に向ひ、及び末法中の微少善根有る者の為に、如來に請問す。何ぞ方便開化示導を設けて、信心を生じ衰惱を除くことを得しめん。彼の衆生、惡時に遭値し、障礙多きを以ての故に其の善心を退し、世間出世間因果法中に於いて數しば疑惑を起して堅心に專ら善法を求むること能ず。如是の衆生、愍むべし救ふべし。世尊の大慈一切種智、願くは方便を興し之を曉喩して疑網を離れ諸障礙を除かしめ、増長することを得ば隨って何の乘に於いてか速に不退を獲ん」。
佛、堅淨信に告げて言く「善哉善哉。快く斯事を問ふ。深く我意に適せり。今此の衆中に、菩薩摩訶薩あり。名て地藏と曰ふ、汝應に此事を以て之に請問すべし。彼當に汝が為に方便を建立し開示演説すべし。誠に汝が願ふ所ならむ。時に堅淨信菩薩、復白佛言「如來世尊無上大智何意ぞ説かず乃ち彼の地藏菩薩をして之を演説せしめんと欲する乎」。
佛、堅淨信に告げたまはく「汝、高下の想を生ずる莫れ。此の善男子は、發心已來、無量無邊不可思議阿僧祇劫を過ぎて久しく已に能く薩婆若海に度して功徳滿足せり。但し本願自在力に依るが故に、權巧現化して十方に影應す。雖復た普く一切刹土に遊んで常に功業を起こすと雖も而も五濁惡世において化益偏に厚し。亦た本願力の熏習するところに依るが故に、及び衆生應に化業を受るに因るが故也。彼れ十一劫より來、此世界を莊嚴し衆生を成熟す。是の故に斯の會中に在って身相端嚴威徳殊勝なり。唯だ如來を除きて能く過ぐる者なし。又、此世界の所有る化業において、唯だ遍吉(普賢菩薩)觀世音等を除いて諸大菩薩は皆な能く及ばず。是の菩薩の本誓願力を以て速かに衆生一切の所求を満たし、能く衆生一切の重罪を滅し、諸障礙を除きて現に安隱を得せしむ。又た是の菩薩を名けて善安
慰説者と為すは、所謂深法を巧演し能く善く初學發意大乘を求むる者を開導し、怯弱ならしめず。如是等の因縁を以て。此世界に於いて衆生渇仰して化を受け度を得る。是の故に我今彼をして之を説かしむ」。
爾時、堅淨信菩薩既に佛の意を解し已りて尋て、即ち地藏菩薩摩訶薩を勧請して言く、「善哉、救世眞士。善哉大智開士。我が所問の如く惡世の衆生は何方便を以てか之を化導し、諸障を離れて堅固の信を得せしめん。如來今者、爲に汝をして是の方便を説かしめんと欲す、宜しく當に時を知りて哀愍爲説せよ」。
爾時、地藏菩薩摩訶薩、堅淨信菩薩摩訶薩に語りて言く「善男子よ諦聽せよ。當に汝が為に説かん。若し佛滅後惡世之中、諸有る比丘比丘尼優婆塞優婆夷、世間出世間因果法中に於いて未だ決定の信を得ずして無常想苦想無我想不淨想を修學する能はず成就現前すること能はず、四聖諦法及十二因縁法を勤觀する能はず、亦た眞如實際無生無滅等法を勤觀せず、如是の法を勤觀せざるを以ての故に、
畢竟して十惡根本過罪を作さざること能はず、三寶功徳種種境界に於いて專信すること能はず、三乘中において皆定向なし。如是等人、若し種種諸障礙事有らば、憂慮を増長し、或は疑ひ、或は悔やむ。一切處において心は明了ならず、多求多惱して衆事牽纒し所作不定、思想擾亂して道業を修することを廃す。如是等の障難事ある者は當に木輪相法を用ひて善惡宿世之業・現在苦樂吉凶等事を占察すべし。縁合するが故にあり、縁盡れば則ち滅す。業集心に隨って相現し、果起る。失せず壞せず相應して差はず。如是に善惡業報を占諦し。自心を曉喩せば疑ふ所の事において以って決了を取るべし。若佛弟子、但だ當に此の如き相法を學習し至心に歸依すべし。所觀之事成ぜざる者なし。應に如是之法を棄捨して返りて世間卜筮種種占相吉凶等事を隨逐して貪著樂習すべからず。若し樂習する者は深く聖道を障す。善男子よ、木輪相を學ばんと欲せば先ず當に木を刻むこと小指の如く許り、長短
一寸より減ぜしむ。正中は其四面をして方平ならしむ。自餘は兩頭に向ひて斜に漸く之を去る。手を仰ぎて傍に擲じて轉じ易からしむ。是義に因るが故に、説て名て輪と為す。又此相に依り、能く衆生の邪見疑網を破壞し、正道に轉向して安隱處に到らしむ。是の故に輪と名く。其輪相は三種の差
別あり。何等爲三。一は輪相。能く宿世所作の善惡業種差別を示す。其輪十あり。二は輪相。能く宿世の集業の久近と所作の強弱大小差別を示す。其輪三あり。三は輪相。能く三世中受報差別を示す。其輪六あり。若し宿世所作善惡業差別を觀ぜんと欲する者は當に木を刻みて十輪と為し、此の十輪に依りて十善の名を書記すべし。一善一輪に主在し、一面に於いて記す。次に十惡を以て書して十善に対し相當せしむべし。亦た各の一面に記在す。十善と言ふは則ち一切衆善の根本と為す。能く一切諸餘の善法を攝す。十惡と言ふは亦た一切衆惡の根本を為す。能く一切諸餘惡法を攝す。若し此の輪相を占せんと欲する者は、先ず當に至心に學して十方一切諸佛を總禮すべし。因って即ち立願せよ。
願くは十方一切衆生をして速疾に皆な受持讀誦し如法修行及び他の為に説くことを得ん。次に當に至心に學して十方一切賢聖を敬禮すべし。 因って即ち立願す。願くは十方一切衆生をして速疾に皆な親近供養することを得て菩提心を発し志不退轉ならんことを。後應に至心に學して我地藏菩薩摩訶薩を禮すべし。因って即ち立願して願くは、十方一切衆生をして速得に惡業重罪を除滅して諸障礙を離れ資生衆具悉く皆充足することを得べし。如是に禮し已りて、所有の香華等に随ひて當に供養を修すべし。供養を修するとは一切の佛法僧寶體常に遍滿して在ざる所無しと仰念すべし。願せよ、此の香華をして法性に等同ならしめ普く一切諸佛刹土に熏じ佛事を施作せんと。又念ぜよ、十方一切の供具は時として有ざるなし、と。我今當に十方の所有(あらゆ)る一切種種香華瓔珞幢幡寶蓋諸珍妙飾種
種音樂燈明燭火飮食衣服臥具湯藥乃至十方所有の一切種種莊嚴供養之具を以て、憶想遙かに擬し、普く衆生と共に奉獻供養すべし。當に念ぜよ、一切世界中の供養を修する者あらば我今隨喜す。若し未だ供養を修せざる者は願くは開導して供養を修せしめんことを得ん。又た願くは我身速に能く一切刹土に遍至して一切佛法僧所において各の一切種莊嚴供養之具を以て一切衆生と共に等持奉獻せん。一切諸佛法身色身舍利形像浮圖廟塔一切佛事を供養し、一切所有の法藏及び説法處を供養し、一切賢聖僧衆に供養せん。願せよ一切衆生と共に如是の供養を修行し已りて漸に六波羅蜜四無量心を成就することを得て、一切法本來寂靜無生無滅一味平等離念清淨畢竟圓滿なるを深知せんと。又應に別に復た心を係けて我地藏菩薩摩訶薩を供養す。次に當に名を稱し、若しくは默して誦念し一心に南無地藏菩薩摩訶薩と告言すべし。如是に稱名して滿足して千に至り、千念を經已りて是の言を作す。地藏菩薩摩訶薩、大慈大悲唯だ願くは我及び一切衆生を護念して速かに諸障を除き淨信を増長して今の所觀をして實に稱して相應せしめたまへ、と。此の語を作し已りて然る後に手に木輪を執り、淨物の上に於いて傍に之を擲よ。如是は自ら觀んと欲する法なり。若し他を觀んと欲すれば皆な亦た如是なり。應に知るべし。其の輪相を占う者は現する所の業に随って悉く應に一一諦觀思驗すべし。或は純に十善を具し、或は純に十惡を具し、或は善惡交雜、或は純善具せず、或は純惡具せず。如是の業因種類不同、習氣果報各各別異なり。佛世尊の餘處に廣説するが如し。所現の業種を憶念し思惟し觀察し應當すべし。今世の果報の經る所、苦樂吉凶等の事及び煩惱業、相當することを習得する者とは名けて相應と為す。若し不相當とは謂く不至心なり。虚謬と名く也。復次に初輪相を占するに中に唯身の善を得んにこの第二の輪相中において身悪を得る者は謂く私心なし。相応を得ず。虚謬と名く。中に不殺業及び偸盗業を得て意に先ず不殺業を主観せんに而も第二輪相中に於いて身悪を得る者は不相応と名く。また次に若し現在の従生以来を観ずるに殺業をねがはず、殺罪を作ることなく但意に殺業を主とせんにしかも此の第二輪相中に於いて身の大悪を得る者は謂く不相応と名く。自餘の口業の中の業の不相応の義もまた如是に當に知るべし。若し輪相を占するに、其の善惡業倶に不現の者は此人已に無漏智心を證して專ら出離を求め復た世間の果報を受来ることを楽はず。諸有漏業展轉微弱にして更に増長せず。是の故に現れざるなり。又た純善を具せず、純惡を具せざる者、此二種の人、善惡之業、現せざることのある所の者は皆な是れ微弱にして未だ能く果を牽くことあたはず。是の故に現ぜざるなり。若し當來世の佛諸弟子、已に善惡果報を占して相應を得る者は五欲の衆具に於いて意に稱することを得ん。時に當に自縱にして以って放逸を起こすこと勿れ。即ち應に思念すべし。我宿世、如是の善業に由るが故に今此の報を獲る。我今乃ち轉ずべし。更に進修して應に休止せざるべし。
若し衆厄種種衰惱不吉之事に遭ひ、擾亂憂怖して意に稱はざるの時は、應當に甘受すべし。疑悔して善業を修することを退せしむることなかれ。即ち當に思念すべし。但だ我が宿世、如是の惡業を造るが故に今此の報を獲る。我今應當に彼の惡業を悔ひて專ら對治を修し及び餘善を修すべし。懈怠放逸に止住して轉た更に種種苦聚を増集することを得ることなかれ。是を占察初輪相法と名く。善男子よ、若し過去往昔集業久近所作強弱大小差別を占察せんと欲する者は、當に復た木を刻みて三輪と為し、身口意を以て各の一輪を主どり、字を書し之を記すべし。又た輪の正中一面に於いて一畫を書き、麁長ならしめて畔に徹らしむ。次に第二面に一畫を書きて、細短ならしめ畔に至らざらしむ。次に第三面に一傍刻の畫の如くなるを作りて其をして麁深ならしむ。次に第四面も亦た傍刻を作して細淺ならしむ。當に知るべし、善業の莊嚴すること猶し畫飾の如し。惡業の衰害すること猶し損刻の如し。其の畫、長大なるは積善來ること久しく行業猛利して作す所は増上なることを顯示す。其畫細短なるは、積善來ること近く始習基鈍にして所作微薄なることを顯示す。其の刻麁深なるは、習惡來ること久しくして所作増上して餘殃亦厚きことを顯示す。其の刻細淺なるは、善を退し來ること近くして始て惡法を習ふ所作之業未だ増上にいたらざることを顯示す。或は重惡を起こすは已に曾って改悔すと雖も此を小惡と謂ふ。善男子よ、若し初輪相を占ふ者は、但だ宿世所造之業善惡差別を知るといへども而も積習久近所作之業強弱大小を知ることあたはず。是の故に須らく第二輪相を占ふべし。若し第二輪相を占ふ者は、當に初輪相中所現之業に依るべし。若し身に屬せば身輪相を擲し、若し口に屬せば
口輪相を擲し、若し意に屬せば意輪相を擲す。此の三輪之相を以て一たび擲げて通占することを得ず。應當に業に隨って一一の善惡を主念し、所屬の輪に依りて別に擲て之を占すべし。善男子もし未来世の諸衆生等生老病死を度脱せんことを欲求し始學発心して禅定無相の智慧を修習せん者は應當に先ず宿世に作す所の悪業の多少及び軽重を観ずべし。若し悪業多厚なる者は即ち禅定智慧を学ぶこと能はず。應當に先ず懺悔の法を修すべし。所以何となれば此の人宿習の悪心猛利なるがゆえに今現在に於いて必ず多く悪を造り重禁を毀犯す。重禁を犯すを以ての故に若し懺悔して其れをして清浄ならしめずして而も禅定智慧を修する者は則ち多く障礙ありて能く剋獲すること能はず、或は失神錯乱し或いは外部に悩まされ或いは邪法を納受して悪見を増長す。この故に先ず懺悔法を修すべし。若し戒根清浄にして宿世の重罪微薄なる者は則ち諸障を離る。
善男子、懺悔法を修せんと欲する者は當に靜處に住し、力の能ふる所に隨って一室を莊嚴し内に佛事を置き及び經法を安じ、繒幡蓋を懸けよ。香華を求集して以って供養を修せ。身體を澡沐し及び
衣服を洗ひて臭穢ならしむことなかれ。晝日分に於いて此の室内に在りて三時に稱名し、一心に過去七佛(毘婆尸仏 · 尸棄仏 · 毘舎浮仏 · 倶留孫仏 · 倶那含牟尼仏 · 迦葉仏 · 釈迦牟尼仏)及び五十三佛(普光佛・普明佛・普靜佛・多摩羅・跋栴檀香佛・栴檀光佛・摩尼幢佛・歡喜藏摩尼寶積佛・一切世間樂見上・大精進佛・摩尼幢燈光佛・慧炬照佛・海徳明光佛・金剛牢疆普散金光佛・大彊精進勇猛佛・大悲光佛・慈力王佛・慈藏佛・栴檀窟莊嚴勝佛・賢善首佛・善意佛・廣莊嚴佛・金華光佛・寶蓋照空自在王佛・虚空寶華光佛・琉璃莊嚴王佛・普現色身光佛・不動智光佛・降伏諸魔王佛・才光明佛・智慧勝佛・彌勒仙光佛・世靜光佛・善寂月音妙尊智王佛・龍種上尊王佛・日月光佛・日月珠光佛・慧幡勝王佛・師子吼自在力王佛・妙音勝佛・常光幢佛・觀世燈佛・慧威燈王佛・法勝王佛・須彌光佛・須蔓那華光佛・優曇鉢羅華殊勝王佛・大慧力王佛・阿閦毘歡喜光佛・無量音聲王佛・才光佛・金海光佛 山海慧自在通王佛・大通光佛・一切法常滿王佛)を敬禮せよ。次に十方面に随ひて一一に總歸し心を擬して、遍く一切諸佛所有色身舍利形像浮圖廟塔一切佛事を禮せ。次に復た十方三世の所有る諸佛を總禮せよ。又た當に心を擬して遍く十方一切法藏を禮せよ。次に當に心を擬して遍く十方一切賢聖を禮せよ。然る
後に更に別に稱名して、我地藏菩薩摩訶薩を禮せよ。如是に禮し已りて應當に作る所の罪を説き一心に仰告すべし。唯だ願くは十方諸大慈尊證知護念したまへ。我今懺悔し復た更に造らず。願くは我及び一切衆生、速かに無量劫來の十惡四重五逆顛倒謗毀三寶一闡提罪を除滅することを得ん。復た應に思惟すべし、如是の罪性は但だ虚妄顛倒心より起こり定實に而も得べき者あることなし。本唯だ空寂なり。願くは我及一切衆生、速かに心本に達して永く罪根を滅せん、と。次に應に復た勸請之願を發すべし。願くは令十方一切菩薩をして未だ正覺を成ぜざる者は願くは速かに正覺を成ぜしめ、若し已に正覺を成ずる者は願くは常住在世して正法輪を轉じて涅槃に入らざらしめんことを。次に當に復た隨喜之願を發すべし。願くは我及一切衆生、畢竟して永く嫉妬之心を捨て、三世中一切刹土に於いて所有一切功徳を修學し及び成就する者は悉く皆な隨喜せんことを。次に當に復た迴向之願を發すべし。願くは我所修の一切功徳、一切諸衆生等を資益し、同じく佛智に趣きて涅槃城に至らん。如是に
迴向の願を発し已りて、復た餘の靜室に往きて一心に端坐せよ。若しは稱誦、若しは我之名號を默念し、當に睡眠を減省すべし。若し惛蓋多き者は應に道場室中において旋遶誦念すべし。次に夜分時に至り、若し燈燭光明の事有る者は亦た應に三時に恭敬供養し悔過發願すべし。若し光明を辦ずる事能はざる者は、應當に直に餘の靜室中に在りて一心誦念すべし。日日如是に懺悔法を行じて懈廢せしむること勿れ。若し人、宿世に遠く善基有りて暫時惡因縁に遇ひて惡法を造り、罪障輕微にして其心猛利に意力強き者は、七日を経る後、即ち清淨を得て諸障礙を除く。如是の衆生等、業に厚薄有りて、諸根利鈍差別無量なり。或は二七日を経て後、清淨を得ることを得る。或は三七日を経、乃至或は七七日を経た後而も清淨を得る。若し過去現在倶に増上の種種重罪ある者、或は百日を経て而も清淨を得、或は二百日を経、乃至或千日を経て而も清淨を得る。若し極鈍根罪障最重の者は但だ當に能く勇猛之心を発して惜身命想を顧みず常に勤めて稱念し晝夜旋遶し睡眠を減省し禮懺發願し、供養を樂修して懈らず廢せず乃至命を失ふとも要て休退せざるべし。如是に精進せば千日中に於いて必ず清淨を獲。善男子。若し清淨相を知ることを得んと欲せば始め修行して七日後を過ぎてより應當に日日晨朝旦において第二輪相を以て具さに手中に安じて頻りに三たび之を擲て。若し身口意皆純善ならば清淨を得と名く。如是の未來の諸衆生等、能く懺悔を修行する者は、先過去久遠より以來佛法中に於いて各曾って善を習へり。其の所修の何等の功徳に随って、業に厚薄種種の別異あり。是の故に彼等清淨を得る。時相も亦た不同なり。或は衆生の三業純善を得る時、即更に諸餘の好相を得る有り。或は衆生の三業善相を得る時、一日一夜中に於いて、復たその室に光明遍滿するを見、或は殊特異好の香氣を聞きて身意快然たり。或は善夢を作す。夢中に佛身來りて爲に證を作し、手其頭を摩し善哉汝今清淨なり我來りて汝を證すと歎言するを見る。或は夢に菩薩身來りて爲に證を作す。或は夢に佛形像放光して爲に證を作すと見る。若人未だ三業善相を得ざれば但だ先ず此の如くの諸事を見聞する者は則ち虚妄誑惑詐僞と為す。善相に非ざる也。若し人、曾って出世の善基有りて心を攝すること猛利なる者は我爾の時において應に度すべき所に随って而も爲に身を現し大慈光を放ち彼をして安隱に諸疑怖を離れしむべし。或は神通種種變化を示し、或は復た彼をして自ら宿命に逕る所の事所作善惡を憶はしめ、或は復た其の樂ふ所の爲に随って種種深要之法を説かん。彼の人、即時に所向の乘に於いて決定信を得ん。或は漸に沙門の道果を證獲せん。復た次に彼の諸衆生、若し未だ能く我が化身の轉變説法を見る事能わずと雖も、但し當に至心に學して身口意をして清淨相を得已らしむべし。我れ亦た護念して彼の衆生をして速かに種種障礙を消滅することを得せしめん。天魔波旬來りて破壞せず、乃至九十五種外道邪師一切鬼神も亦た來りて亂せず。所有の五蓋展轉輕微にして
諸禪智慧を修習するに堪能せん。
復次に若し未來世の諸衆生等、禪定智慧出要之道を求ることを為さずと雖も、但だ遭種種衆厄貧窮困苦憂惱
逼迫に遇う者は亦た應に恭敬禮拜供養して所作の惡を悔ひて恒常に發願し、一切時一切處に於いて、勤心に我之名號を稱誦し其をして至誠ならしむべし。亦た當に種種衰惱を速脱し、此命を捨已りて善處に生ずべし。
復次に未來之世、若しは在家、若しは出家の諸衆生等、受清淨妙戒を受けんと欲求せんに而も先に已に増上重罪を作して受るを得ざる者は亦た當に如上に懺悔法を修すべし。其をして至心に身口意善相を得しめ已りて即ち應に受くべし。若し彼の衆生、摩訶衍道を習はんと欲して、菩薩根本重戒を受けんことを求め及び在家出家一切禁戒所謂攝律儀戒攝善法戒攝化衆生戒を總受せんと願ひ、而も能く善好戒師の菩薩法藏を廣解せる先修行者を得ること能はざれば應當に至心に道場内に於いて恭敬供養し十方諸佛菩薩に仰告し請して師證と為すべし。一心に立願して戒相を稱辯せよ。先ず十根本重戒を説き、次に當に三種戒聚を總擧して自誓して受けよ。此亦た得戒なり。復次に未來世の諸衆生等、出家を欲求し及び已に出家すれども、若し善好戒師及清淨僧衆を得ること能はず、其心疑惑して如法に禁戒を受くること得ざる者は、但だ能く發無上道心を學し、亦た身口意をして清淨を得已って、其の未出家者は應當に剃髮し法衣を被服して如上に立願して自誓して菩薩律儀三種戒聚を受くべし。則ち具に波羅提木叉出家之戒を獲ると名け、名て比丘比丘尼と為す。即ち應に聲聞律藏及菩薩所習摩徳勒伽藏を推求して、受持讀誦觀察修行すべし。若し出家すと雖も而も其年二十未滿の者は、應當に先に誓願して十根本戒及受沙彌沙彌尼所有別戒を受くべし。既に受戒已らば亦た沙彌沙彌尼と名く。即に應に先舊出家學大乘心具受戒の者に親近供養給侍し、求めて依止之師と為すべし。教戒を請問し威儀を修行すること沙彌沙彌尼法の如くせよ。若し如是之人に値ふこと能はざれば唯だ當に菩薩所修摩徳勒伽藏に親近して讀誦思惟觀察修行すべし。慇懃て佛法僧寶。を供養すべし。若し沙彌尼年已に十八なる者は亦た當に自誓して毘尼藏中式叉摩那六戒之法を受け、及び比丘尼一切戒聚を遍學すべし。其の年、若し二十に満る時、乃ち如上の菩薩三種戒聚を總受すべし。然る後に比丘尼と名くることを得る。若し彼の衆生、懺悔を學すと雖も、至心に善相を獲ること能はざる者は設へ受相を作すとも名けて得戒となさず。
爾時、堅淨信菩薩摩訶薩、地藏菩薩摩訶薩に問ひて言く「所説の至心とは、差別幾種かある。何等の至心か能く善相を獲る」。地藏菩薩摩訶薩言く「善男子、我が所説の至心とは、略して二種有り。何等をか二となすや。一は初始學習求願至心。二は攝意專精成就勇猛相應至心。此の第二の至心を得る者は能く善相を獲る。此の第二の至心には復た下中上の三種の差別あり。何等をか三となす。一は一心。所謂る係想して亂れず心住すこと了了なり。二は勇猛心。所謂る專求して懈らず身命を顧みざるなり。三は深心。所謂る法を與こし相應して究竟不退なり。若し人、此の懺悔法を修習せむに、乃至下至の心をも得ざる者は終に清淨善相を獲ること能はず。是を占第二輪法を説くと名く。
善男子よ、若し三世中の受報の差別を占察せむと欲せば當に復た木を刻みて六輪と為せ。此の六輪に於いて一・二・三/四・五・六/七・八・九/十・十一・十二/十三・十四・十五/十六・十七・十八等の數を以て字を書し之を記すべし。一數一面を主すこと各の書三面、數次第をして不錯不亂ならしめよ。當に知るべし此の如くの諸數は皆な一數より起れる。一を以て本と爲す。如是の數相は一切衆生六根之聚は皆な如來藏自性清淨心一實境界より起って一實境界に依りて之を以て本と爲すことを顕示す。所謂る一實境界に依る故に彼の無明あり。一法界を了せず。謬念思惟して妄境界を現ず。分別取著集業の因縁に眼耳鼻舌身意等六根を生ず。内の六根に依るを以ての故に、外の色聲香味觸法等六塵に對して、眼耳鼻舌身意等六識を起こす。六識に依るを以ての故に、色聲香味觸法中に於いて違想順想非違非順等の想を起こし十八種の受を生ず。若し未來世の佛の諸弟子、三世中の所受の果報に於いて疑意を決せしめんと欲する者は、應當に此の第三輪相を三擲して合數を占計し、數に依りて之を觀て以って善惡を定むべし。如是の所觀の三世の果報善惡之相に一百八十九種あり。何等をか一百八十九種と為すや。一は求上乘得不退。二は所求果現當證。三は求中乘得不退。四は求下乘得不退。五は求神通得成就。六は修四梵得成就。七は修世禪得成就。八は所欲受得妙戒。九は所曾受得戒具。十は求上乘未住信。十一は求中乘
未住信。十二は求下乘未住信。十三は所觀人爲善友。十四は隨所聞是正信。十五は所觀人爲惡友。十六は隨所聞非正教。十七は所觀人有實徳。十八は所觀人無實徳。十九は所觀義不錯謬。二十は所觀義是錯謬。二十一は有所誦不錯謬。二十二は有所誦是錯謬。二十三は所修行不錯謬。二十四は所見聞是善相。二十五は有所證爲正實。二十六は有所學是錯謬。二十七は所見聞非善相。二十八は有所證非正法。二十九は有所獲邪神持。三十は所能説邪智辯。三十一は所玄知非人力。三十二は應先習觀智道。三十三は應先習禪定道。三十四は觀所學無障礙。三十五は觀所學是所宜。三十六は觀所學非所宜。三十七は觀所學是宿習。三十八は觀所學非宿習。三十九は觀所學善増長。四十は觀所學方便少。四十一は觀所學無進趣。四十二は所求果現未得。四十三は求出家當得去。四十四は求聞法得教示。四十五は求經卷得讀誦。四十六は觀所作是魔事。四十七は觀所作事成就。四十八は觀所作事不成。四十九は求大富財盈滿。五十は求官位當得獲。五十一は求壽命得延年。五十二は求世仙當得獲。五十三は觀學問多所達。五十四は觀學問少所達。五十五は求師友得如意。五十六は求弟子得如意。五十七は求父母得如意。五十八は求男女得如意。五十九は求妻妾得如意。六十は求同伴得如意。六十一は觀所慮得和合。六十二は所觀人心懷恚。六十三は求無恨得歡喜。六十四は求和合得如意。六十五は所觀人心歡喜。六十六は所思人得會見。六十七は所思人不復會。六十八は所請喚得來集。六十九は所憎惡得離之。七十は所愛敬得近之。七十一は觀欲聚得和集。七十二は觀欲聚不和集。七十三は所請喚不得來。七十四は所期人必當至。七十五は所期人住不來。七十六は所觀人得安吉。七十七は所觀人不安吉。七十八は所觀人已無身。七十九は所望見得覩之。八十は所求覓得見之。八十一は求所聞得吉語。八十二は所求見不如意。八十三は觀所疑即爲實。八十四は觀所疑爲不實。八十五は所觀人不和合。八十六は求佛事當得獲。八十七は求供具當得獲。八十八は求資生得如意。八十九は求資生少得獲。九十は有所求皆當得。九十一は有所求皆不得。九十二は有所求少得獲。九十三は有所求得如意。九十四は有所求速當得。九十五は有所求久當得。九十六は有所求而損失。九十七は有所求得吉利。九十八は有所求而受苦。九十九は觀所失求當得。一百は當所失永不得。一百一は觀所失自還得。一百二は求離厄得脱難。一百三は求離病得除愈。一百四は觀所去無障礙。一百五は觀所去有障礙。一百六は觀所住得安止。一百七は觀所住不得安。一百八は所向處得安快。一百九は所向處有厄難。一百一十は所向處爲魔網。一百一十一は所向處難開化。一百一十二は所向處可開化。一百一十三は所向處自獲利。一百一十四は所遊路無惱害。一百一十五は所遊路有惱害。一百一十六は君民惡饑饉起。一百一十七は君民惡多疾疫。一百一十八は君民好國豐樂。一百一十九は君無道國災亂。一百二十は君修徳災亂滅。一百二十一は君行惡國將破。一百二十二は君修善國還立。一百二十三は觀所避得度難。一百二十四は觀所避不脱難。一百二十五は所住處衆安隱。一百二十六は所住處有障難。一百二十七は所依聚衆不安。一百二十八は閑靜處無諸難。一百二十九は觀怪異無損害。一百三十は觀怪異有損害。一百三十一は觀怪異精進安。一百三十二は觀所夢無損害。一百三十三は觀所夢有所損。一百三十四は觀所夢精進安。一百三十五は觀所夢爲吉利。一百三十六は觀障亂速得離。一百三十七は觀障亂漸得離。一百三十八は觀障亂不能離。一百三十九は觀障亂一心除。一百四十は觀所難速得脱。一百四十一は觀所難久得脱。一百四十二は觀所難受哀惱。一百四十三は觀所難精進脱。一百四十四は觀所難命當盡。一百四十五は觀所患大不調。一百四十六は觀所患非人惱。一百四十七は觀所患合非人。一百四十八は觀所患可療治。一百四十九は觀所患難療治。一百五十は觀所患精進差。一百五十一は觀所患久長苦。一百五十二は觀所患自當差。一百五十三は所向醫堪能治。一百五十四は觀所療是對治。一百五十五は所服藥當得力。一百五十六は觀所患得除愈。一百五十七は所向醫不能治。一百五十八は觀所療非對治。一百五十九は所服藥不得力。一百六十は觀所患命當盡。一百六十一は從地獄道中來。一百六十二は從畜生道中來。一百六十三は從餓鬼道中來。一百六十四は從阿修羅道中來。一百六十五は從人道中而來。一百六十六は從天道中而來。一百六十七は從在家中而來。一百六十八は從出家中而來。一百六十九は曾値佛供養來。一百七十は曾親供養賢聖來。一百七十一は曾得聞深法來。一百七十二は捨身已入地獄。一百七十三は捨身已作畜生。一百七十四は捨身已作餓鬼。一百七十五は捨身已作阿修羅。一百七十六は捨身已生人道。一百七十七は捨身已爲人王。一百七十八は捨身已生天道。一百七十九は捨身已爲天王。一百八十は捨身已聞深法。一百八十一は捨身已得出家。一百八十二は捨身已値聖僧。一百八十三は捨身已生兜率天。一百八十四は捨身已生淨佛國。一百八十五は捨身已尋見佛。一百八十六は捨身已住下乘。一百八十七は捨身已住中乘。一百八十八は捨身已獲果證。一百八十九は捨身已住上乘善男子。是を一百八十九種善惡果報差別之相と名く。
此の如くの占法、心所觀主念之事に随って若し數合意と相當する者は乖錯あることなし。若し其の擲ふ所の所合の數と心所觀主念之事と不相當なる者は謂ゆる不至心なり。名けて虚謬と為す。其の三たび擲げて皆無所現者は此人則ち已に無所得を得ると名ける也。復た次に善男子よ、若し自ら意を発して他人所受の果報を観るも事亦た同く爾かり。若し他人自占すること能はずして來りて求請して占せしめんと欲っする者あらば、應當に籌量して自心を觀察すべし。世間を貪らず内意清淨にして然る後に乃ち如上に歸敬修行供養至心發願して爲に占察すべし。應に世間の名利を貪求すべからず、師道を行ふが如く以て自ら乱を妨ぐべし。又た若し内心清淨ならざる者は設ひ占察せしむるも相ひ當らず。但だ虚謬と為る耳。復た次に若し未來世の諸衆生等、一切の占する所、吉善を獲ず、所求不得、種種の憂慮逼惱怖懼する時は、應當に晝夜我之名字を常勤誦念すべし。若し能く至心なる者は所占則ち吉、所求皆獲て現に衰惱を離る。
(占察善惡業報經卷上終)
占察善惡業報經卷下 出六根聚經中 天竺三藏菩提燈譯
爾時、堅淨信菩薩摩訶薩、地藏菩薩摩訶薩に問ふて言く「云何が大乘を求向する者に進趣方便を開示せん」。地藏菩薩摩訶薩言く「善男子よ、若し衆生有りて大乘に向はんと欲す者は應當に先ず最初所行根本之業を知るべし。其の最初所行根本業とは所謂る一實境界に依止して以って信解を修す。信解を修して因りて力増長するが故に、速疾に菩薩種性に得入す。所言の一實境界とは、謂く衆生の心體本より從以來、不生不滅にして自性清淨無障無礙なること猶し虚空の如し。分別を離するが故に。平等普遍にして無所不至、十方に圓滿す、究竟一相にして無
二無別不變不異無増無減なり。一切衆生心・一切聲聞辟支佛心・一切菩薩心・一切諸佛心、皆同く不生不滅無染寂靜眞如相なるを以ての故に。所以者何。一切の心、分別を起こすことあるは猶ほ幻化の如く定實あることなし。所謂る識受想行憶念縁慮覺知等種種の心數、非青非黄非赤非白亦た非雜色なり。長短方圓大小あることなし。乃至十方において虚空一切世界を盡して心の形状を求むるに一區分として得るべき者なし。但だ衆生の無明癡闇熏習因縁に妄境界を現ずるを以て念著を生ぜしむ。所謂、此の心、自ら知ること能はず。妄りに自から有ると謂ひて覺知の想を起こして我・我所を計すれども而も實に覺知之想あることなし。此の妄心畢竟無體にして見るべからざるを以ての故に。
若し覺知能分別者無ければ則ち十方三世一切境界差別之相なし。一切法は皆な自ら有なる能はざるを以て、但だ妄心分別に依るが故に有なり。所謂、一切の境界、各各 自ら念じて有と為して、此は自と為なりと知り、彼は他なりと知るにあらざれば是の故に一切法は自有なること能はず、則ち別異なし。唯だ妄心に依り内自無なることを知らず了ぜざるを故に、前外の所知の境界を有ると謂ひて妄りに種種の法想を生じて、有と謂ひ、無と謂ひ、彼と謂ひ、此と謂ひ、是と謂ひ、非と謂ひ、好と謂ひ、悪と謂ひ、乃至妄りに無量無邊の法想を生ず。當に如是に知るべし、一切諸法は皆な妄想より生じ、妄心に依って本と爲す、と。然らば此の妄心、無自相なるが故に、亦た境界に依りて有り。所謂、念前境界を覺知する縁の故に説きて名けて心と為す。又た此の妄心と前境界と、倶に相依すと雖も起に先後なし。而も此の妄心能く一切境界の原主と為る。所以者何。謂く妄心に依るが故に法界一相なることを了せず。故に、心に無明有と説く。無明力因に依るが故に妄境界を現ず。亦た無明滅するに依るが故に一切の境界も滅す。一切の境界自ら了せざるに依るが非ず。故に、境界に無明有と説くに亦た境界に依るが故に無明を生ずるに非ず、一切諸佛は一切境界に於いて無明を生ぜざるを以ての故に、又復、境界の滅するに依るが故に無明心滅するに非ず。以一切の境界は本より已來體性自滅にして未だ曾って故有りて、此の如くの義に因りて是の故に但だ一切諸法は心に依りて本と爲すと説く。當に知るべし、一切諸法は悉く名けて心と爲す。
義體異ならず心の為に攝むる所なるを以ての故に、又一切諸法は心より起る所にして心の為に相を作り和合して有り。共に生き共に滅して同じく住あることなし。一切の境界は但だ心の所縁に随ふ。念念相續するを以ての故に。而も住持することを得るは暫時も有なし。如是に所説の心の義は、二種の相あり。何等をか二となすや。一は心内相。二は心外相。心内相とは、復た二種あり。云何爲二。一は眞。二は妄。言ふ所の眞とは、謂く心體本相如如不異清淨圓滿無障無礙微密にして見難し、一切處に遍じて常恒に壞せずして以て一切法を建立生長するが故に。所言の妄とは、謂く起念して分別覺知縁慮憶想等の事なり。復た相續して能く一切種種の境界を生ずと雖も而も内虚僞にして眞實あることなくして見るべからざるが故に。所言の心の外相とは、謂く一切諸法種種境界等なり、所念有るに随って境界現前する故に知る内心及び外心差別ありと。如是に當に知るべし、内の妄想は因となし、體となす。外の妄相は果となし用と爲なす。此等の如き義に依り。是の故に我、一切諸法は悉く名けて心と為す。又復た當に知るべし。心の外相とは夢所に種種境界を見るが如し。唯だ心想の作すところにして實の外事無し。一切の境界は悉く亦た如是なり。皆無明識の夢に依りて見る所の妄想の作なるを以ての故なり。復た次に應に知るべし、内心念念住せざるが故に、所見所縁の一切の境界も亦た心に隨って念念に住せず、所謂る心生ずるが故に種種の法生ず。心滅するが故に種種の法滅す。この生滅の相は但だ名字のみ有り、實に不可得なり。心境界に往至せず、境界も亦た心に來至於せざるを以ての故也。鏡中の像無來無去なるが如し。是の故に一切法は生滅の定相を求めるに了に不可得なり。所謂一切法は畢竟無體。本來常空にして實に不生滅なるが故に。如是に一切法は實に不生滅なれば則ち一切境界の差別之相無し。寂靜一味なるを名けて眞如第一義諦自性清淨心と為す。彼の自性清淨心は湛然圓滿にして分別の相無きを以ての故に。無分別相とは、一切處において無所不在なり、無所不在とは能く一切法を依持建立するを以ての故なり。復た次に彼の心を如來藏と名く。所謂、無量無邊不可思議無漏清淨功徳之業を具足す。諸佛の法身は無始本際よりこのかた、無障無礙自在不滅なるを以て、一切の現化・種種の功業も恒常熾然にして未だ曾って休息せず。所謂、一切世界に遍じて皆な作業を示し、種種に化益するが故に。一佛身即是一切諸佛身一切諸佛身即是一佛身なるを以て、所有の作業も亦た皆な共に一なり。所謂分別の相無く、彼此を念ぜず、平等無二なり。一法性に依って作業有るは自然の化に同じく體は別異なきを以ての故に。如是の諸佛の法身は一切處に遍じて圓滿不動なるが故に、諸衆生の此に死し彼に生ずるに随って恒に爲に依と作る。譬へば虚空の悉く能く一切色像種種形類を容受するが如し。一切の色像・種種の形類、皆な虚空に依りて建立生長すること有るを以て、虚空中に住して虚空處の所攝と為り、虚空を體と為すを以て能く虚空界分を出る者あることなし。當に知るべし色像之中虚空之界毀滅すべからず。色像終壞の時、還りて虚空に帰す。而して虚空本界は無増無減不動不變なり。諸佛の法身も亦復た如是なり。悉く能く一切衆生の種種の果報を容受す。一切衆生の種種の果報は皆諸佛の法身に依りて建立生長すること有るを以て、法身中に住して法身處の所攝と為り、法身を以て體と為るを以て能く法身界分を出る者有ることなし。當に知るべし、一切衆生身中の諸佛の法身は亦た毀滅すべからず。若し煩惱斷壞する時、法身に還歸す。而して法身の本界は無増無減不動不變なり。
但だ無始世より來、無明心と倶なる癡闇因縁熏習分の故に妄境界を現ず。妄境界熏習因縁に依るを以ての故に妄想相應心を起こす。我・我所を計し、諸業を造集して生死の苦を受く。彼の法身を説きて名けて衆生と為す。若し如是の衆生中に法身熏習して力あれば、煩惱漸く薄し。能く世間を厭ひ涅槃道を求して、一實に信歸し六波
羅蜜等一切菩提分法を修し、名けて菩薩と為す。若し如是の菩薩中に一切善法を修行し滿足究竟して無明の睡を離るることを得る者は、轉じて名を佛と為す。當に知るべし如是の衆生菩薩佛等は、但だ世間の假名言説に依るが故に差別あり。而して法身之體は畢竟平等にして異相あることなし。善男子よ、是を略説一實境界義と名く。若し一實境界に依りて信解を修せんと欲する者は應當に二種の觀道を学習すべし。何等をか二と為すや。一は唯心識觀。二は眞如實觀。惟心識觀を学ぶ者は所謂一切時一切處に於いて身口意に随って所作の業有り。悉く當に觀察して唯だ是れ心なりと知るべし。乃至一切の境界に若し心念を住せば皆な當に察知すべし。心をして無記攀縁して念念の間に於いて自ら覺知せざらしむること勿れ。悉く應に觀察すべし。心、縁念するところ有るに随て還りて當に心をして彼の念を隨逐せしめて心をして自ら知らしむべし。己が内心自ら想念を生ずと知る。一切の境界に念あり分別あるに非ざる也。所謂内心自ら長短好惡是非得失衰利有無等の見、無量の諸想を生ずれども而も一切の境界は未だ曾って分別を想起することあることなし。當に知るべし、一切の境界は自ら分別の想無きが故に即ち自ら長に非ず短に非ず好に非ず惡に非ず乃至有に非ず無に非ず一切の相を離る。如是に觀察するに一切の法は唯だ心想より生ず。若し心を離れしめば則ち一法一想として而も能く自ら差別有る事を見ることなき也。常に應に如是に内心を守記して唯だ妄念にして實境界無しと知りて休廢せしむることなかるべし。是を唯心識觀を修學すと名く。若し心無記にして自心の念なりと知らざる者は即ち前境界ありと謂ふ。唯心識觀と名けず。又、内心を守記する者は、則ち貪想瞋想及愚癡邪見の想を知り、善を知り、不善を知り、無記を知り、心の勞慮種種諸苦を知る。若し坐時に於いて心の所縁に随って念念唯心の生滅なりと觀知せば、譬へば水流燈炎の暫時も住すること無きが如し。是に従って當に色寂三昧を得べし。此の三昧を得已りて次に應に信奢摩他觀心及び信毗婆舍那觀心を学習すべし。信奢摩他觀心を習ふとは内心不可見相を思惟するに圓滿にして不動、無來無去、本性不生不滅にして分別を離るが故に。信毗婆舍那觀心を習ふとは、内外の色を想見するに心に隨って生じ、心に隨って滅す。乃至想を習ひて佛の色身を見るも、亦復た如是に心に隨って生じ心に随って滅し、幻の如く化の如く水中の月の如く鏡中の像の如し。心に非ず心を離るに非ず來るに非ず不來に非ず去るに非ず不去に非ず生れるに非ず不生に非ず作に非ず不作に非ず。善男子よ、若し能く此の二觀心を習信する者は、速かに一乘之道を趣會することを得る。當に知るべし如是の唯心識觀を名けて最上智慧之門と為す。所謂、能く其の心猛利に信解力に長じて空義に疾入し無上大菩提心を発することを得むるが故に。若し眞如實觀を學習する者は、心性無生無滅なりと思惟して見聞覺知に住せず、一切分別之想を永離す。漸漸に能く空處識處無少處非想非非想處等定境界相を過ぎて、相似の空三昧を得る。相似の空三昧を得る時、識想受行の麁分別の相、現在前せず。此れに従って修學せば善知識大慈悲者の為に守護長養せらる。是の故に諸障礙を離れて勤修して廢せず、展轉して心寂三昧に能入す。是の三昧を得已りて即ち復た能く一行三昧に入る。是の一行三昧に入り已らば、佛を見ること無數にして深廣行心を発して堅信位に住す。所謂、奢摩他毗婆舍那二種の觀道に於いて決定信解して能く決定に向ふ。修學する所の世間諸禪三昧之業に随って樂著する所なく、乃至遍く一切善根菩提分法を修して生死の中に於いて怯畏する所なく、二乘を楽はず。能く二觀心を習向する最妙巧便は衆智の所依の行の根本なるを以ての故に。
復た次に如上の信解を修學する者の人に二種有り。何等爲二。一は利根。二は鈍根。其の利根なる者は先ず
已に能く一切外諸境界唯心所作虚誑不實如夢如幻等を知り、決定して疑慮あることなければ、陰蓋輕微にして散亂の心は少なり。如是等の人は即ち應に眞如實觀を學習すべし。其の鈍根なる者は先ず未だ能く一切外諸境界悉唯是心虚誑不實なりと知らざるが故に、染著して情厚うして蓋障數ば起りて心は調伏し難し。應當に先ず唯心識觀を學すべし。若し人、如是の信解を學すと雖も而も善根の業薄うして未だよく進趣すること能はず、諸惡煩惱を漸く伏すること得ざれば、其心疑怯して三惡道に墮し、八難處に生ずるを畏る。常に佛菩薩等に値はずして正法を供養聽受するを得ざることを畏る。菩提行の成就すべからざることを畏る。此の如くの疑怖及種種障礙等有らむ者は應に一切時一切處において常に勤めて我之名字を誦念すべし。若し一心を得れば善根増長して其の意は猛利なり。當に我法身及び一切諸佛の法身、己が自身と體性平等無二無別にして不生不滅常樂我淨功徳圓滿なり是れ歸依すべしと觀ずべし。又復た己身の心相を観察するに無常苦無我不淨如幻如化なり。是れ厭離すべし。若
し能く如是の觀を修學する者は速かに淨信之心を増長するを得て、所有る諸障は漸漸に損減す。何以故。此の人を名けて我が名を聞きて學習する者亦た能く十方諸佛の名を聞きて学習する者と為す。至心を學して我を禮拜供養する者、亦た能く至心を学して十方諸佛を禮拜供養する者と為す。名けて大乘深經を聞きて學する者となす。名けて大乘深經を執持書寫供養恭敬を学する者となす。名けて大乘深經を受持讀誦することを学する者となす。名けて爲學邪見を遠離し深正義中に於いて墮謗せざることを学する者となす。名けて究竟甚深第一實義中に於いて信解を学する者となす。名けて能く諸罪障を除く者となす。名けて當に無量功徳聚を得べき者となす。此の人、身を捨れば終に惡道八難之處に堕せず。還りて正法を聞き、習信修行して亦た能く他方の淨佛國土に隨願往生す。復た次に若し人、他方現在の淨國に欲生する者は應當に彼の世界の佛之名字に随って專意誦念して一心不亂なるべし。如上に觀察する者は決定して彼の佛淨國に生ずることを得る。善根増長して速かに不退を獲ん。當に知るべし上の如く一心に係念して諸佛平等法身を思惟するは、一切善根中に其業最勝なり。所謂る勤めて修習する者は漸漸に能く一行三昧に向かふ。若し一行三昧に到る者は則ち廣大微妙行心を成ずる。相似無生法忍を得ると名く。
能く我名字を聞くこと得るを以ての故に、亦た能く十方諸佛の名字を聞くことを得るが故に、能く至心に我を禮拜供養する故に、亦た能く至心に十方諸佛を禮拜供養するが故に、能く大乘深經を聞くことを得るを以ての故に、
能く大乘深經を執持書寫供養恭敬するが故に、能く大乘深經を受持讀誦するが故に、能く究竟甚深第一實義
中に於いて怖畏を生ぜず誹謗を遠離し正見の心を得、能く信解するが故に決定して諸の罪障を除滅するが故に、無量功徳聚を現證するが故に。所以者何。謂く無分別菩提心寂靜智現の方便業種種願行を起發するが故に能く我名を聞く者は謂く決定して利益行を信ずることを得るが故に。乃至一切の所能の者は皆な一乘の因を退せざるを得る故に。若し雜亂垢心ならば復た我之名字を稱誦すと雖も名を聞くと為さず。決定の信解を生ずること能はざるを以て但だ世間の善報を獲て廣大深妙利益を得ず。如是の雜亂垢心は其の所修の一切諸善に随って皆な深大利益を得ること能はず。善男子よ、當に知るべし、如上に勤心に無相禪を修學する者は久しからずして能く深大利益を獲る。漸次に作佛せむ。深大利益とは所謂る堅信之法位に入り信忍を成就することを得るが故に、堅修位に入りて順忍を成就するが故に、正眞位に入りて無生忍を成就するが故に。又た信忍を成就するとは能く如來の種性を作すが故に。順忍を成就するとは能く如來行を解するが故に。無生忍を成就するとは如來業を得る故に。漸次に作佛するとは略説して四種あり。何等爲四。一は信滿法の故に作佛す。所謂種性地に依りて決定して諸法の不生不滅清淨平等願求すべきなきを信ずるが故に。二は解滿法の故に作佛す。所謂る解行地に依りて深く法性を解し如來の業の無造無作を知りて生死涅槃に於いて二想を起こさず心無所怖なるが故に。三には證滿法の故に佛と作る。所謂る淨心地に依りて無分別寂靜法智及び不思議自然之業を得て求想なきを以ての故に。四には一切
功徳行滿足の故に佛と作る。所謂る究竟菩薩地に依りて能く一切諸障無明の夢を除き盡くすが故に。復た次に當に知るべし若し世間の有相禪を修学する者に三種あり。何等爲三。一は方便信解力無きが故に諸禪三昧の功徳を貪受して憍慢を生じ、禪の為に縛せられて退して世間を求む。二には方便信解力無きが故に禪に依りて偏厭離行を発起し、生死を怖怯して二乘に退墮す。三には方便信解力あり、所謂る一實境界に依止して奢摩他毗婆舍那の二種の觀道を習近するが故に能く一切の法は唯心想より生じて如夢如幻等と信解して、世間の諸禪功徳を獲ると雖も而も堅著せず復た退して三有之果を求めず、又た生死即涅槃と信知するが故に亦た怖怯して二乘を退求せず。如是に一切諸禪三昧の法を修学する者は當に知るべし十種の次第相門あり。禪定之業を具足攝取して能く學者をして成就して相應不錯不謬ならしむ。何等爲十。一は攝念方便相。二は欲住境界相。三は初住境界分明了了知出知入相。四は善住境界得堅固相。五は所作思惟方便勇猛轉求進趣相。六は漸得調順稱心喜樂除疑信解自安慰相。七は剋獲勝進意所專者少分相應覺知利益相。八は轉修増明所習堅固得勝功徳對治成就相。九は隨心有所念作外現功徳如意相應不錯不謬相。十は若更異修依前所得而起方便次第成就出入隨心超越自在相。是を十種次第相門攝修禪定之業と名く。
爾時、堅淨信菩薩摩訶薩は地藏菩薩摩訶薩に問て言く「汝云何が巧みに深法を説きて能く衆生をして得離怯弱を離れることを得しむるや」。地藏菩薩摩訶薩言「善男子よ、當に知るべし、初學の發意、大乘を求向して未だ信心を得ざる者は、無上道甚深之法に於いて喜びて疑怯を生ず。我嘗て方便を以て實義を宣顯して而も之を安慰して
怯弱を離れしむ。是の故に我を號して善安慰説と為す。云何んが安慰するや。所謂、鈍根小心の衆生、無上道最勝最妙なるを聞きて、意は貪樂して發心願向すと雖も而も復た思念して無上道を求むる者は要ず須らく積功廣極難行苦行自度度他劫數長遠にして生死中に於いて久しく勤苦を受けて方に乃はち獲ることを得。是を以ての故に心怯弱を生ず。我れ即ち爲めに眞實之義を説かん。所謂る一切諸法は本性自ら空なり。畢竟無我無作無受無自無他無行無到無有方所、亦た過去現在未來乃至爲説十八空等も無し。生死涅槃一切諸法は定實之相として得る者のあること無し。又た復た爲に説く一切諸法は如幻如化如水中月如鏡中像如乾闥婆城如空谷響如陽焔如泡如露如燈如目如夢如電如雲、煩惱生死性甚だ微弱にして滅せしむるべきこと易し。又煩惱生死は畢竟無體、求不可得。本來不生なれば實に更に滅無く自性寂靜、即ち是れ涅槃なり。此の所説の如き能く一切の諸見を破し、自身心執著想を損するが故に怯弱を離るることを得る。復た衆生、如來の言説の旨意を解せざる故に怯弱を生ず。當に知るべし如來の言説旨意とは、所謂る如來は既に彼の一實境界を見るが故に、究竟して生老病死衆惡之法を離るることを得て、彼の法身常恒清涼不變異等無量功徳聚を証す。復た能く了了に一切衆生の身中を見るに皆な如是の眞實微妙清淨功徳あり。而かるに無明闇染の為に覆障されて長夜恒に生老病死無量衆苦を受く。如来ここに於いて大慈悲意を起こし、一切衆生をして衆苦を離れしめ同じく法身第一義の樂を獲しめんと欲し、而も彼の法身は是れ無分別離念之法なり。唯だ能く虚妄の識想を滅して念を起こさざる者ありて、乃ち得べき所なり。但だ一切衆生、常に樂ひて分別して諸法を取著し顛倒妄想を以ての故に而も生死を受く。是の故に如來、彼をして分別執著想を離れしめんと欲するが故に一切世間の法は畢竟體空にして所有無く、乃至一切出世間法も亦た畢竟體空にして所有無しと説く。若し廣説せば十八空https://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/cba1322cae4d769c953fb7507a7bbd8b
の如し。
如是に一切諸法を顯示するに皆な菩提の體を離れず。菩提の體とは、非有・非無・非非有・非非無・非有無倶・非一・非異・非非一・非非異・非一異倶、乃至畢竟して一相として得べき者あることなし、一切相故を離るるを以ての故に。一切相を離るるとは、所謂る言説に依って菩提法中の言を受くる者あることなく、及び能言説者無しというべきにあらずが故に。又心念に依りて知るべからず。菩提法中には能取の取るべきあることなく、無自無他、分別相を離るるを以ての故に。若し分別想有る者は則ち虚僞と為す。相應と名けず。
如是等の説、鈍根の衆生能く解すること能はざる者は無上道如來の法身は但唯だ空法なり一向に畢竟して所有なしと謂ひて、其の心怯弱にして無所得中に堕することを畏る。或は斷滅の想を生じ、増減の見を作し、轉た誹謗を起こして自輕し輕他す。我れ即ち爲に説かむ、如來法身は自性不空にして眞實の體有りて、無量清淨の功業を具足す。無始世より來かた自然に圓滿して修に非ず作に非らず、乃至一切衆生の身中にも亦た皆な具足して不變不異無増無減なり。如是等の説は能く怯弱を除く。是を安慰と名く。又復た愚癡堅執の衆生は、如是等の説を聞きて亦た怯弱を生ず。如來法身は本來滿足して修に非ず作相に非ずと取るを以ての故に、無所得の想を起こして怯弱を生ず。或は自然に計して邪倒見に堕す。
我れ即ち爲に説かん、一切善法を修行して増長滿足すれば如來色身を生じて無量功徳清淨果報を得る。此の如く等の説、怯弱を離れしむ。是を安慰と為す。而も我
が所説の甚深之義は、眞實相應して諸過あることなし。相違の説を離るるを以ての故に。云何が相違を離るる相を知るや。所謂る如來の法身中には復た言説の境界有ることなく心の想念を離れて非空・非不空乃至一切相無く言説に依るべからずと示すと雖も而るに世諦幻化因縁假名法中に據りて相待相對、即ち方便顯示して説くべし。彼の法身の性は實に分別無く自相を離れ他相を離れ空無く不空無く乃至一切諸相を遠離するが故に、彼の法體を説きて畢竟空無所有と為す。心分別を離すれば想念則ち盡くるを以て、一相として而も能く自ら見、自ら知りて有と為すことなし。是の故に空の義は決定す。眞實相應して謬またず。
復次に即ち彼の空義中には分別妄想の心念を離るるを以ての故に則ち盡して畢竟して一相として空すべき者あることなし。唯だ眞實のみ有るを以ての故に即ち不空と為す。所謂る識想を離るるが故に、一切虚僞之相あることなし。畢竟して常恒不變不異なり。以更に一相として壞すべく滅すべき無く、増減を離るるを以ての故に。又た彼の無分別實體之處、無始世より來かた無量功徳自然之業を具して成就相應して不離不脱なるが故に、説きて不空と為す。如是の實體功徳之聚、一切
衆生、復た之有りと雖も、但だ無明曀の覆障の為の故に而も知見せず、功徳利益を剋獲すること能はざれば無と異なること莫きを説きて未有と名く。
彼の法體を知見せざれば所有の功徳利益之業、彼の衆生の能く受用する所に非ざるを以て彼に屬すと名けず。唯だ遍ねく一切善法を修するに依りて、諸障を對治す。彼の法身を見て然る後に功徳利益を獲る。是の故に一切善法を修して如來の色身を生ずと説く。
善男子よ、我が所説の甚深之義の如くは、決定眞實にして相違の過を離る。當に如是に知るべし。
爾時、地藏菩薩摩訶薩、此の如き等の殊勝方便深要法門を説きたまふ時、十萬億の衆生ありて阿耨多羅三藐三菩提心を発し堅信位に住す。復た九萬八千の菩薩ありて無生法忍を得る。一切大衆は各の天の香花を以て佛及び地藏菩薩摩訶薩に供養す。
爾時、佛諸大衆に告げて言く「汝等各各應當に此の法門を受持し所住の處に随って廣く流布せしめよ。所以者何。此の如くの法門は甚だ値ひ難く、能く大利益をなす。若し人、彼の地藏菩薩摩訶薩の名號を聞くことを得及び其の所説を信ずる者は當に知るべし是の人は速かに能く一切所有の諸障礙事を離るることを得て疾く無上道に至らん」。是において大衆皆同じく言を発す「我當に受持すべし、世間に流布して敢へて忘れしめじ」。爾時、堅淨信菩薩摩訶薩白佛言「世尊、如是の所説は六根聚修多羅中の何の法門とか名けん。此の法は眞に要なり、我當に受持し未來世中において普く皆な聞くことを得しめん」。佛、堅淨信菩薩摩訶薩に告げて言く「此の法門は名けて占察善惡業報と名く。亦た消除諸障増長淨信と名く。亦た開示求向
大乘者進趣方便顯出甚深究竟實義と名く。亦た善安慰説令離怯弱速入堅信決定法門と名く。如是の名義に依り汝當に受持すべし」。佛、此の法門の名を説き已りて一切の衆會、悉く皆な歡喜し信受奉行せり。
(占察善惡業報經卷下終)