福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「無明と覚」大山公淳師

2018-12-19 | 法話
「無明と覚」大山公淳
大乗仏教に起心論を中心とする考え方、(従って釈摩訶衍論は)吾人の一心についてそれは本来清浄なるべきを断定し、ただ無明のために染汚されるという。すなわち一心は何人においても本来それ自らの本性として清浄であって、無明煩悩のためにのみ汚されることを明らかにし、且つその本来の心性は永遠の創造の中にあって寂然としてそれ自体無念であり、不変であるとする。無念といい不変というは何らの思慮分別にも煩わされず、客観的なすべての現象にこだわらないことをいう。かような一心の本性を忘れてそれに違背するので妄染汚が次第に展開し、一心の根本たるアリヤ識の上に六識七識(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那識)の波をも発するようになる。それは忽然として起こるものであるととは有名な起信論の無明忽然縁起説である。念がおこるので本来清浄なるべき一心が汚される。その根本を無明といい無明の種々な変化のすがたを煩悩と称している。然しその無明の発生を考えるにそれは吾人の純粋清浄な生命が萌動する必然の動きというほかないであろう。
 その無明は修行の終局において必ず断滅し得られるかというについて、もしこれを断滅すといえば、本来の清浄心たる心性すなわち本覚智をも断滅することになる。無明という染汚の念は本覚の心性とともに展開するので一を除いて他を残すことはあり得ない。もし断滅せずといえばその過失は大きく永遠に吾人は覚を求め得ないことになるが如何、という疑問がある。

 それについて無明と覚に二様の見方があるということを明らかにする。
一は同体同相の見方で、
二は異体異相の見方である。
初めの同とは一切諸法は皆同一の理の上に存在すると言う意味で、後の異とは一切諸法の存在は皆各々別な立場にあるという説である。もしはじめの説によれば無明と覚とは結局一なので無明のみを断滅するということはできない。後の説によれば、無明は断滅し得られることになる。釈摩訶衍論巻三の下半に出す諸法無行経には「貪欲これ涅槃、恚痴もまたその如く、それらの中に仏道があるので、見ると見ないと執着すると執着しないとは共に一つの理の上の見方の相違なのであって、実には佛もなく法もないと知る。また心地觀經の中に根本無明は生命の闇黒面であるが、その力は最も大きくよく一切智を障碍して自由を与えない。これを断滅するに般若という智の剣もってし、飾るにもろもろの功徳の宝を以ってすれば無明の海も漸く尽き、法身真如の山が徐々に顕現す」と説く。
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