鈴木宋忠老師という臨済宗の名僧(四国33番雪渓寺住職もされた)の講演を聞いたことがあります。
演台にのぼると開口一番「みなさんご苦労さまです。ここから見るとみなさんは因果の博覧会じゃ」と言いました。
我々は因果の博覧会の中でそれぞれがそれぞれの人生を作品として展示しているというわけです。
パスカルは「人間は信仰なくば自分は自分にとって怪物となる」といい、親鸞上人は「我が心のよくてころさぬにはあらず。さるべき業縁の催せばいかなるふるまいをもすべし。」とおっしゃいました。
人間という愚かな存在は過去世で数限りない業を作り出し、それを「因」としこの世で自分の「縁」に出あうことにより「果」を生じそれをこの世の人生でそれぞれ互いに展示しているのです。
◇
しかし現在の「苦」は自分の業の結果といっても、簡単にあきらめきれるものではありません。
さらにこの世は不条理なことばかりです。
運命の不思議さや不条理さについても古今東西さまざまなことが言われてきました。
「神々はあわれな人間どもに苦しみつつ生きるように運命の糸を紡がれたのだ。ご自身にはなんの憂いもないくせに。
ゼウスの屋敷の床には人間に賜るものをいれた甕が二つおいてあり、一つには悪いことが、もう一つには善いことが入っている。
この二つを混ぜてたまわったものは、あるときは不幸にあうが幸せに恵まれることもある。悪いことばかりを賜ったものは、人に蔑まれる身に落とされ、彼を激しい飢餓が尊い大地の上を追廻し神々にも人間にも顧みられずにさまよいあるくことになる。」
(ホメロス「イリアス」)
◇ ◇ ◇
「治乱は運なり、窮達は命なり、貴賎は時なり」(国の乱れは運、苦しんだり栄達していくのは命、貴賎は時代の力である。)
(魏の李康 「運命論」)
◇ ◇ ◇
「天の暦数なんじの身にあり」
(書経)
◇ ◇ ◇
「子供のとき仙人から「科挙で14番でとおり、四川の知事になり、53歳の8月14日に死ぬ。子供はできない。」といわれそのとおりの人生を歩んでいた。あるとき雲谷禅師に会いこのことを告げると、「天のなせる禍は避けることができる。自らなせる禍は避けることができぬ。
お前が今から徳行を磨き善行をつめばこれはみずからの福であるから運は開ける。」と言った。案の定53歳をすぎても生きた。」
(袁了凡「陰隲録」)
◇ ◇ ◇
「塞翁の馬が逃げた。
ひとびとがお悔やみをのべると、これは幸いのもとかも知れぬという。果たしてその馬は胡の地から多くの馬をひきいてかえってきた。周りはめでたいと言うと、いやこれは禍の種になるかも知れぬという。
案の定塞翁の子が落馬して骨折した。見舞いを言われた塞翁はこれは幸いとなるかもしれぬという。やはりこのために子息は万里の長城の苦役をまぬかれた。」
(淮南子)
◇ ◇ ◇
「およそ天地間のこと・・・その数みな前より定まる、人の富貴貧賤、死生壽夭、利害栄辱、聚散離合にいたるまで一定の数にあらざるなし。ことにいまだこれと前知せむのみ。
たとえばなほ傀儡の戯れの機関すでに備わりしかして観者知らざるがごときなり。世人そのこのごときをさとらずもって己の知力恃むにたると称して終身役々。
東に索め西に求めついに悴役して斃る。これまた惑の甚だしきもの。」
(佐藤一斎「言志録」)
◇ ◇ ◇
「過去の因を知らんと欲すれば現在の果をみよ、未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ。」
(因果経)
◇ ◇ ◇
「そもそもこの天地の間にありとあらゆることは悉く神の御意なるなかにすべてこの世の中のことは春秋のゆきかはり雨降り風吹くたぐいまた国のうえ人の上のよしあしよろずのこと、みなことごとに神のみしわざなり。さて神には善きもあり悪しきもありて所為もそれにしたがうなれば、大方世の常のことはりをもっては測りがたきわざなりかし。
・・・善神のみにあらずかならず悪しきもありて心も技も然あるものなれば、悪しき技する人も栄え・・・」
(古事記伝)
◇ ◇ ◇
「神は鼠をなぶる猫のようにわしらをからかっているのじゃ。そうしておいてわしらにまだ感謝しろという・・・」
(ジッド「贋金つくり」)
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