木喰上人生誕300年を記念して山梨県身延町なかとみ現代工芸美術館では木喰展を平成30年7月14日(土)~10月21日(日)の間開催中。
木喰上人は1718年(享保3年)生まれで今年生誕300年となります。1810年7月6日(文化7年6月5日)93歳で示寂されています。上人は当方にとっても不思議な大変有難いご縁の方です。私の大恩人の生地と木喰上人の生地は同じ甲斐国西八千代郡古関村で、40年以上前木喰上人に関するプロジェクトに私が協力したことから大恩人との深い縁ができたのです。この木喰上人のプロジェクトのおかげで私も平穏な人生を送ることができたといっても過言ではありません。その上人が真言僧だったというのも不思議なご縁です。以下柳宗悦の「木喰上人」から抜き書きしていきます。
「木喰上人」柳宗悦
「木喰五行明満上人年譜 『日本國八州一見之行者 十八大願之内本願として佛を佛師國々因縁ある所にこれをほどこす みな日本千体之
内なり 日本しまじま修行すること 今年まで七十五年 心ごころの中に住す 文化五辰歳三月二十一日ニコレヲカク 神通光明 明満上人』(これは木喰上人自筆の文)。
享保三戌(西暦千七百十八年)生地は甲斐国西八千代郡古関村丸畑・・元文四未 二十二歳 相州大山不動に参篭し・・・古義真言宗の大徳の仏門に帰す。七十年間の僧としての生活このときに始まる。・・宝暦十二年四十五歳 常陸国羅漢寺木喰観海上人より木喰戒を受く。・・安永二巳 五十六歳 日本廻國の大願を発し2月18日相州伊勢原を出立。この年より満願にいたるまで廻國すること27年。・・寛政九巳 八十歳 このころより千体佛彫刻の心願を佛体裏に記す。・・文化五年辰 九十一歳 既に千体佛を成就し「二千体」の大願を発す。文化七午 九十三歳六月五日寂。」
「・・上人と私とに深き縁を結ばせたものは私自身の力によるものではないのです。何者かが私に贈る命数によるものです。それは大正十二年の正月九日にことでした。私は思いついたまま甲州への旅に出かけました。一つは小宮山清三氏の所に朝鮮の陶磁器を見に行くためでした。・・小宮山氏とは初対面でした、然るにその日偶然にも二体の上人の作が私の目に映ったのです。・・二体の仏像は暗い庫の前に置かれてありました。(それは地蔵菩薩と無量寿如来とでした)。・・私は即座に心を奪われました。その口許に漂う微笑は私を限りなく引き付けました。尋常な作者ではない。異数な宗教体験がなくばかかるものは刻みえない・・私の直感はそう断定せざるを得ませんでした。座敷に通された時更に一躰、南無大師の像が安置してありました。その折私は始めて小宮山氏から「木喰上人」という名をきかされました。そして峡南の人だということが付け加えられました。・・詣でる寺々も真言の一宗には限らない、禅刹も弥陀堂も彼の足を招いている。・・神社も亦彼の敬念を集めた。神仏は一体であった。彼の納札に彼は「霊佛霊社日本順國」と書いた。・・その頃は今日とは異なって篤信の者が多い故、民衆の生活は信じ信じられつつある生活である。・・遍路する者を遇するのは人々に恵まれた努めであった。接待の心もまた大師詣の心である。‥順礼は万民の希願をを担うて遍歴する。私はかかる時代があり得たことを、またあり得ることを信ぜねばならぬ。世は仏の裡に活きえたのである。・・
彼が刻んだ仏像は極めて多種多様である。殆どあらゆる名が現れてくる。釈迦如来・弥勒菩薩・大日如来・アシュク如来・宝生如来・薬師如来・・多聞天・十六羅漢・十王尊・・弘法大師‥。これらのものの種字を皆知り且つ佛躰の伝統的約束を熟知していたことを思えば彼には厚き注意と充分な準備とがあったのである。
『みな人の心ごころをざんげせよ 神も仏も いさみまします。』
『皆人は神と仏のすがたなり、なぜにその身を信ぜざりけり。』
『日月の心の神のあまてらば 祈るこころもおなじ日月。』・・」
木喰上人は1718年(享保3年)生まれで今年生誕300年となります。1810年7月6日(文化7年6月5日)93歳で示寂されています。上人は当方にとっても不思議な大変有難いご縁の方です。私の大恩人の生地と木喰上人の生地は同じ甲斐国西八千代郡古関村で、40年以上前木喰上人に関するプロジェクトに私が協力したことから大恩人との深い縁ができたのです。この木喰上人のプロジェクトのおかげで私も平穏な人生を送ることができたといっても過言ではありません。その上人が真言僧だったというのも不思議なご縁です。以下柳宗悦の「木喰上人」から抜き書きしていきます。
「木喰上人」柳宗悦
「木喰五行明満上人年譜 『日本國八州一見之行者 十八大願之内本願として佛を佛師國々因縁ある所にこれをほどこす みな日本千体之
内なり 日本しまじま修行すること 今年まで七十五年 心ごころの中に住す 文化五辰歳三月二十一日ニコレヲカク 神通光明 明満上人』(これは木喰上人自筆の文)。
享保三戌(西暦千七百十八年)生地は甲斐国西八千代郡古関村丸畑・・元文四未 二十二歳 相州大山不動に参篭し・・・古義真言宗の大徳の仏門に帰す。七十年間の僧としての生活このときに始まる。・・宝暦十二年四十五歳 常陸国羅漢寺木喰観海上人より木喰戒を受く。・・安永二巳 五十六歳 日本廻國の大願を発し2月18日相州伊勢原を出立。この年より満願にいたるまで廻國すること27年。・・寛政九巳 八十歳 このころより千体佛彫刻の心願を佛体裏に記す。・・文化五年辰 九十一歳 既に千体佛を成就し「二千体」の大願を発す。文化七午 九十三歳六月五日寂。」
「・・上人と私とに深き縁を結ばせたものは私自身の力によるものではないのです。何者かが私に贈る命数によるものです。それは大正十二年の正月九日にことでした。私は思いついたまま甲州への旅に出かけました。一つは小宮山清三氏の所に朝鮮の陶磁器を見に行くためでした。・・小宮山氏とは初対面でした、然るにその日偶然にも二体の上人の作が私の目に映ったのです。・・二体の仏像は暗い庫の前に置かれてありました。(それは地蔵菩薩と無量寿如来とでした)。・・私は即座に心を奪われました。その口許に漂う微笑は私を限りなく引き付けました。尋常な作者ではない。異数な宗教体験がなくばかかるものは刻みえない・・私の直感はそう断定せざるを得ませんでした。座敷に通された時更に一躰、南無大師の像が安置してありました。その折私は始めて小宮山氏から「木喰上人」という名をきかされました。そして峡南の人だということが付け加えられました。・・詣でる寺々も真言の一宗には限らない、禅刹も弥陀堂も彼の足を招いている。・・神社も亦彼の敬念を集めた。神仏は一体であった。彼の納札に彼は「霊佛霊社日本順國」と書いた。・・その頃は今日とは異なって篤信の者が多い故、民衆の生活は信じ信じられつつある生活である。・・遍路する者を遇するのは人々に恵まれた努めであった。接待の心もまた大師詣の心である。‥順礼は万民の希願をを担うて遍歴する。私はかかる時代があり得たことを、またあり得ることを信ぜねばならぬ。世は仏の裡に活きえたのである。・・
彼が刻んだ仏像は極めて多種多様である。殆どあらゆる名が現れてくる。釈迦如来・弥勒菩薩・大日如来・アシュク如来・宝生如来・薬師如来・・多聞天・十六羅漢・十王尊・・弘法大師‥。これらのものの種字を皆知り且つ佛躰の伝統的約束を熟知していたことを思えば彼には厚き注意と充分な準備とがあったのである。
『みな人の心ごころをざんげせよ 神も仏も いさみまします。』
『皆人は神と仏のすがたなり、なぜにその身を信ぜざりけり。』
『日月の心の神のあまてらば 祈るこころもおなじ日月。』・・」