福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

Q,真言宗でいう「阿字本不生」とは?・・その4

2018-01-19 | 諸経

問、前に本不生という教え以外は皆邪見なりとおっしゃいました。若しそれならば法相・三論・天台・華厳及び禅宗にいう教えで「すべてはもともと実体はない」という教えは皆邪見ですか?そうすると佛様がこれをお示しになったのは邪見をお教になったのですか?(前に聞は本不生にあらざるは皆邪見なりと。。若ししからば法相三論天台華厳及び禅宗に本源の法性は寂滅無相なりといふは皆邪見なるべしや、然るに佛これを示し玉ふは人に邪見を教下さるなりや如何。)

答、大日経に、「邪見をはなれて正見に通達す」という句がある。この正見というのは「本不生」の意味である。是に知ることができるのは「本不生」のほかの見解はみな邪見であるということである。しかし邪見ということは外道でいう因果を絶対視したり否定したりするような酷いものという意味ではない。片一方に偏して全体をカバーしてないから邪見ありと云うのである。これは論語に「君子は周して比せず小人は比して周せず」(論語「為政」。「君子は広く公平に人と親しむが、小人は特定の仲間とだけ親しみがちである)というような意味である。「本不生」の意味は君子の心の如く広いものであり、その他の教えは小人の心の如く狭いものである。しかし仏法は因縁の義を本として因果を立るが故に人を悪くすることは無いのである。次の疑問で佛は此の偏った教えを示し玉ふは邪見を教えたまふとのかと非難する質問であるが、これは喩へば世の人が幼子の躾に「あわわ」といって手拍子などをして啼くを止めるようなものである。仏様の本心は「本不生」の理を至極として衆生に示したいとおぼしめておられても、衆生の執着を払わんために仮に「寂滅」を至極と説きたまうたのである。是も又た幼い衆生のためには至極の理となるのであるから、これを至極のおしえであるとして示し玉うのも更に嘘ではない。然れば諸宗はみな方便の片端を一つずつ取りてそれぞれにこれを至極と思っているのである。自宗の教えのみを至極なりと執するときは仏法であるが邪見となるのである。
(大日経に云う、「離於邪見通達正見」、この正見といふは本不生の実義なり。是に知りぬ、本不生のほかの見解はみな邪見なりといふことを。但し、邪見といはばとて外道の断見常見の因果を撥無するが如きにはあらず。偏に落ちて周からざるが故に邪見ありと云うふなり。
是猶論語に「君子は周して比せず小人は比して周せず」(論語「為政」。「君子は広く公平に人と親しむが、小人は特定の仲間とだけ親しみがちである)というが如し。本不生の義は君子の心の如く、自外は小人の心の如し。されども仏法は因縁の義を本として因果を立るが故に人を悪くすることは無きなり。次に佛、此の編なる道を示し玉ふは邪見を教えたまふなるべしやと云難の事は喩へば世の人の幼稚の子の躾には大人の欲せざる阿和和手拍子などをして其の啼くを止めるがごとし。仏の意には無生の理を至極とは欲せざれども、衆生の執着を払わんために権に寂滅を至極と説きたまふなり。是又彼がための至極の理なればこれを至極と示し玉うのも更に妄語にはあらず。然れば諸宗はみな方便の片端を一つずつ取りて面面にこれを至極と思へるなり。若し是は至極にあらずと知るときは偏見邪見にはあらず、是のみ至極なりと執するときは仏法ながら邪見となるなり。)

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