福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「念持真言理観啓白文」

2018-01-11 | お大師様のお言葉
「念持真言理観啓白文」遍照金剛撰
五智華台の大日如来、両部界会の諸尊聖衆を帰命し頂礼したてまつる。大慈大悲をもって壇場に降隣し、随喜護念して悉地を授与したまへ。入我我入し、能く加持するがゆえに、六大無礙にして常に瑜伽なるがゆえに、塵数の眷属は無来にしてきたり、海滴の分身は不摂にして摂したまへ。現在に歓喜地を証得するがゆえに、後の十六生に正覚を成ずるが故に。覚れるを諸仏と名ずけ、迷えるを衆生と名ずく。衆生痴暗にして自ら覚るに由しなし。如来加持してその帰趣を示したもう。

我が口輪より出る陀羅尼門の一一の文字、金色の仏と成って法界に周遍し、虚空に等同なり。各本誓をもって随喜の音を出して正法を演説し、一切衆生を阿字門の中に開示し悟入せしむ。諸仏も法界なれば我が身中にあり、我が身も法界なれば諸仏中にあり。我が身業をもって諸仏の身に入れば、我れ諸仏に帰す。諸仏の身をもって我が身業に入れば、諸仏護念したもう。我が口業をもって佛の口業に入れば、諸々の功徳を讃ず。佛の口業をもって我が口業に入れば説法教授したもう。我が意業をもって佛の意業に入れば、我仏心を知り、および自心を知る。佛の意業をもって我が意業にいれば、法界蔵を開いて我が心に悟入す。諸仏の万徳具足円満して、眷属囲繞すれば我もまた万徳具足円満して、眷属囲繞せり。一佛の功徳広大無辺なれば、無数の如来の功徳無辺なり。

世、出世の一切の教法をば法曼荼羅に摂し、世、出世の一切の有情をば大曼荼羅に摂し、世、出世の一切の器界をば平等壇(三摩耶曼荼羅のこと)に摂し、世、出世の一切の事業をば羯曼荼羅に摂す。世、出世間に凡そ口を開く音は「阿」にあらざることなく、所有の言音は「迦」等にあらざることなし。内外一切の文字の点画は「阿」字にあらざることなく、所有の文字は「迦」等にあらざることなし。一切の有情は六大に非ざることなく、一切の器界は顕形にあらざることなく、一切の事業は動作にあらざることなし。

五大に響きあり、十界に言語を具す。六塵は文字なり。法身は実相なり。

所有の一切の小乗大乗、顕示秘密はみなこれ能詮なり。諸法の体相は法陀羅尼にして一切の教門はみなこれ能詮なり。義門の差別はみなことごとく所詮なり。諸法の理趣は義曼荼羅にして、一切の教門はみなこれ能詮なり。功徳の差別はみなことごとく所詮なり。神験の教門は呪陀羅尼にして、一切の教門はみなこれ能詮なり。入位の差別はみなことごとく所詮なり。得悟果利は忍陀羅尼なり。


この四の総持は一切如来の甘露の智水なり。三世諸仏の醍醐の妙薬なり。一字も臓に入れば万病生ぜず。即身に仏身の空寂を証得す。

いわく一字の中に無量の一切の法門を総摂し、いわく一音の中に無辺の諸仏の理趣を総摂す。一切の法門互いに持するがゆえに、万歳を含持す。もし一法の下に一切法を持するを名ずけて法持となす。もし一義の下に一切の義を持するを名ずけて義持となす。もし一聞のもとに一切の音を持するを名ずけて聞持となす。もし一根の下に一切の理を持するを名ずけて根持となす。この五持をもってあまねく一切の小乗大乗、顕示秘密の無量の教門を持するに尽く摂せずということなし。かくのごときの五持をば一字の中に含む。一字のごとく余の一切の字もみなかくの如きの無量の義理を含めり。易の一爻の中に具に万象を含み、亀の十字の上にことごとく三世を知るがごとし。

一切衆生は無量の佛智みなことごとく具足すれども、知らず覚らず。このゆえに如来慇懃に悲嘆して、種々の方便をもって種々の法を説いて衆生を利益したもう。八万四千の法蔵はみなこれ八万四千の陀羅尼門なり。ゆえにこの総持をば無尽蔵と名ずく。説の如く修行すれば、三劫を経ずして大覚の位を得、理の如く思惟すれば十地を超越して速やかに心仏を証す。総持の我が身も不可得ばるが故に、所持の正法も不可得なるがゆえに。能出の我が身も不可得なるがゆえに。所出の音声も不可得なるが故に。能化の我が身も不可得なるがゆえに。所化の有情も不可得なるがゆえに。能もなく所もなく、内もなく外もなし。不可得なるがゆえに。能持所持、これあることなしといえども、正法宛然たり。能出所出、これあることなしといえども、所出の音声、法界に遍満して、能く仏事をなす。能化所化、これあることなしといえども、化を蒙る有情刹那に無量なり。

動なるを生死と名ずけ、静なるを涅槃と名ずく。迷えるものを衆生と名ずけ、悟れるものを諸仏と名ずく。願わくは我れこの幻化の身業を持って、願わくは我この幻化の真言を誦じ、願わくは我れこの幻化の有情を化し、願わくは我この幻化の菩提を証せん。


一念の浄心は宛も帝網のごとし。両部界会なんぞ影向したまはざらん。一刹の深信はなおし珠玉の如し。十方の諸仏何ぞ証明せざらん。自心の曼荼は有佛無佛、性相常住なり。我が性の教法は有点無点、文理宛然たり。心の道場を観ずればすなわち大覚如来の身を見、身の曼荼を念ずればすなわち常住世尊の像に遇う。衆生は迷えるがゆえに多の衆生を成じ、諸仏は覚れるが故に会して一佛となる。百千の真言はすなわち一心に列なり、恒沙の曼荼はすなわち一身に布けり。行にあっても座のあっても観智離れず、あるは眠り、あるは覚に、道場すなわち変ず。

我がこの道場は帝珠のごとし。十方の諸仏、中に影向す。我が身、諸仏の前に影現す。頭面接足して帰命して礼す。能礼と所礼と性空寂なり。感応道交して思議しがたし。

真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す。
行行として円寂に至り、去去として原初に入る。三界は客舎の如し、一心はこれ本居なり。














































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