福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

最近の企業・官僚の不祥事について

2018-04-15 | 法話
最近、大企業の不祥事(データ改竄偽装、不適切会計、粉飾決算等)が続いたと思ったら、直近では官僚の不祥事も相次いでいます。いずれも世間的には「エリート」とよばれる組織・人です。私自身も役人をやっていましたが、役人のセクショナリズム、省益拡大のためには国益を売ることも平気、という宿弊は当時から見られました。しかもこういうことを平然と行うのは東大を「優秀」な成績で卒業した役人なのです。一例はここにあります。
「経済人は社会的愚者である」とはインドのノーベル経済学者アマルテア・センの言葉です。
こういう現象を見ていると官僚も含む「経済人」全体の社会的愚者ぶりの根は深いものがあります。こういう現象の続発を見るとき今の教育制度は何なのか?と思わざるを得ません。しかしよく考えるとこの間違いは既に明治に始まっていました。以下明治の教育制度の根本的間違の指摘を数例を示します。
1、まず「人間教育を忘れた明治の失敗(安岡正篤)」からです。「・・・それはどういうものかと申しますと、つまり幕末にペルリの来航を契機に、日本は西洋近代の科学技術文明に驚嘆した。・・・インフォリオリティ・コンプレックスというものの最も深刻な、最も大規模なものを、明治の人たちが経験したわけであります。・・・そこで、上は大学から下は小学校まで、学校教育は西洋文明の模倣・再現に役立つ知識・技術を習得させる。とこうなったわけです。そこで、人間を養う、徳性を磨くというようなことは、付け足しになってしまった。・・・ところで、人間には二つの要素(本質的要素と付属的要素)というべきものがあるわけであります。・・この人間としての本質的要素が、人間の道徳性、徳性であります。それから、付属的要素の代表的なものが、知識・技能であります。ところが、明治政府の教育方針というものは、知識教育、技能教育一辺倒になってしまって、人間として一番大切な人物・徳性を養うといことは、ほとんどお話しにならないぐらい、うすっぺらなものになってしまった。」

2、 「日本農士学校設立の趣旨(昭和6年安岡正篤)」
「・・人間に取って教育ほど大切なもののないことは言ふまでもない。国家の命運も国民の教育の裡に存すると古人も申して居る。真に人を救ひ世を正すには、結局教育に須たねばならぬ。然るにその大切な教育は今日如何なるありさまであろうか。
 今日の青年は社会的には悪感化を受けるばかりで、その上に殆ど家庭教育は廃れ、教育は学校に限られて居る。そして一般父兄は社会的風潮である物質主義功利主義に識らず識らず感染して、只管子弟の物質的成功、否最早今日となっては卑屈な給料取りたらしめんことを目的に(実は今日それも至難になってきて居る)力を竭して子弟を学校に通はせる。その群衆する子弟を迎へて学校は粗悪な工場と化し、教師は支配人や技師、甚だしきは労働者の如く生徒は粗製濫造された商品と化し、師弟の道などは滅び、学科も支離滅裂となり、学校全体に何の精神も規律も認めることが出来ない。その為に青年子弟は、何の理想もなく、卑屈に陥り、狡猾になり、贅沢遊惰に流れ、義理人情を弁へず、学問や道に対する敬虔の念を失ひ、男児に雄渾な国家的精神無く、女子に純潔な知慧徳操が欠けてしまった。これで我等民族、我等の国家は明日どうなるであろうか。・・」

3、「国家の品格」で数学者藤原正彦氏は宗教心の厚い、品格のある国が栄えると喝破しました。ドラッカーは「経営者は、学習して身につけることはむつかしいがどうしても持っていなければならないものがある、それは品格である」といいました。
4、「実業読本」で武藤三治は「品性・・・私は会社の従業員にはスマイル博士の「品性論」を与え、品性を磨くよう奨励している。品性は人生において最も大切なものであって,・・富の力よりも品性の及ぼす感化が一層社会の円満なる向上発展に貢献するものである。・・ドイツが(第一次大戦を引き起こし敗れたのは、ドイツ人の品性が粗豪驕慢で)全くドイツ国民の品性の低きがためであった。・・、しからざるものは衰亡の運命を免れぬ。・・」と書いています。
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