福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

釈雲照師「十善業道経講義」から・・その46

2018-04-15 | 諸経
(戒法のことを説くと)雲照は小乗じゃという。この節は羅漢さんんは劣ったものじゃというののがおるがそれは間違いじゃ。(小乗では)羅漢さんはその身がなくなると涅槃にはいってしまう。而してその涅槃は大乗の涅槃とちがい一切消えてしもうて余すところがないというのが小乗の涅槃じゃ。こういうようでは羅漢さんになっても衆生済度ができぬから羅漢にはなるなとお経には説いてある。それを取り違えて狐狸になるとも羅漢さんは悪いととる。それは大変な間違いで、羅漢さんは順逆の境において愛恚のこころなしじゃ。羅漢果の覚りをひらいてみると、右の方から来たって栴檀香を塗って礼拝供養するものがあり、左の方から来たって刀割というて刀を以て肉を割いて唾をかけて逃げるものがある。この二つにおいて愛恚のこころながないという。羅漢はそれほどの貴いお方じゃ。よって弘法大師様が憂国の公子に申し上げさっしゃるとおりじゃ。ある時、公子がいはれるには「若し羅漢得道の者があれば国をあげて供養せん。今のような極道法師には礼拝供養はできぬ。」公子というは天子のお子だか大臣のお子だか言われた。こういうことが書いてある。・・・
真言宗に心と虚空界と菩提との三種は無二なりという。虚空界は真如、真如は虚空界、丁度世界の虚空ようである。それは真言宗も禅宗も説いておる。・・それを何でも教相というとまるでちがったもので禅宗は違う、真言宗は違う、浄土宗は違うというように言うから間違う。そこで拙老が書いた「仏教大原理」をよんでごらんなさい。詰まり十善の一本槍を以て因より果に至る、今日お互いの心より仏の心まで心が三つも四つもあるであない。仏性真如は一つよりない。これが仏法である。・・先ほど申したように仏一音演説法衆生隋類各得戒で、如来が一音を以て法をおときなさるが衆生が随類というて餓鬼はガキなり畜生は畜生なり人間は人間なり野蛮人は野蛮人なり文明人は文明人なり、支那人は支那なり、米国人は米国人なり、各得解というて各解釈を得る。説くかたは仏の一音でもそれを聞く者十人は十人共、百人は百人共、千人は千人共に各々自分の智解を得るのである。
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