福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

朝比奈宗源師の見性『死んでも死なない』

2018-01-13 | 法話
(父母に幼くして死に別れ、他家に預けられて苦労したがたまたまお寺のお参りにいきお釈迦様の涅槃図の解説でお寺の和尚様が「死でも死なない」とおっしゃったのが終生のテーマになり、禅僧になっても考え続けた。)
「・・見性の内容、それは難しいよ君。そうそう西田天香さんという人がいた、一燈園という宗教団体とも新しい村作りともいえる運動を提唱して実際に多くの共鳴者をあつめた人ばぼだが、要するに下座行と無所有ということを唱えてなあ。この人がやはり見性のような体験があるらしい。村の鎮守さんで座っていたんだなあ、夜明け方になって鶏鳴を聞き、ついで赤ん坊の泣き声をきいたそうだよ。ああ、あの赤ん坊はお乳が欲しいと泣いているんだなと思ったとき、はっとしたというんだな。赤ん坊は空腹になれば泣く、すると赤ん坊にふくませるだけの乳はお母さんの胸の中で張っている。
みんな赤ん坊になればいいではないか。空腹になれば泣き、満腹すれば泣き止む。本来人間という生き物はそうあるべきなのに、満腹した上に取り込もうとするから世の中争いが起こる。それが諸悪の根源だ、とね。おれはこの話を聞いてうーんと唸った。俺の場合そんな筋書きだったものではなかったからな。
強いてひとことでいうならば、祖師方のおっしゃるとおりだった、というきわめて平凡な結論にしか過ぎない。つまり俺はそれまで『俺』にとらわれていた。「俺」しか見えなかった。それが俺をいやおうなしにとりまいてくださる仏心というものを見たのだ。それは自分を無にしてはじめて見えたのだな。自分が空しゅうなったのだな。真空状態になって自分を包んでいる『光』がわかったのだ。・・・・無始無終ということは、俺にとらわれていると永久にわかりっこない。俺には生まれたという始めが在り、死という終わりがある。その俺が死んでも天地は生き生きと生きているだろう。山川草木すべて自然のままにあるだろう。それが「仏心」なんだなあ。仏心とはすべてを包んだもの、其の中に我は生き、我は死ぬが一体なるが故に生も超え、死をも超えることができる。俺は其の中に生きていたんではなく、すべてのなかに俺がいたのだ。すべてのものが俺であり、そういう俺がすべてのものだった。・・」(「覚悟はよいか」朝比奈宗源)
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