天台僧円観は正平十一年1356/延文元年三月一日遷化されています。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての天台宗の僧。字は慧鎮。後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明天皇の5帝に戒を授けたために「五国大師」の異名を得たとウキぺデアにあります。https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwi7od7c3eXuAhXSfXAKHSWFAg0QFjABegQIBBAC&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%2586%2586%25E8%25A6%25B3%23%3A~%3Atext%3D%25E5%25B8%25B8%25E7%2594%25A8%25E6%25BC%25A2%25E5%25AD%2597%25E3%2582%2592%25E4%25BD%25BF%25E3%2581%25A3%25E3%2581%25A6%2C%25E6%259B%25B8%25E3%2581%258B%25E3%2582%258C%25E3%2582%258B%25E3%2581%2593%25E3%2581%25A8%25E3%2582%2582%25E5%25A4%259A%25E3%2581%2584%25E3%2580%2582&usg=AOvVaw0E0GbNI7dhadLZ1wD-cqOq
また太平記には円観僧正の流罪になった記事があります。
「太平記・三人の僧徒関東下向の事
同年(元徳三年(1331))六月八日、東使三人の僧達を具足し奉て、関東に下向す。彼の忠円僧正と申は、浄土寺慈勝僧正の門弟として、十題判断の登科、一山無双の碩学也。文観僧正と申は、元は播磨国法華寺の住侶たりしが、壮年の比より醍醐寺に移住して、真言の大阿闍梨たりしかば、東寺の長者、醍醐の座主に補せられて、四種三密の棟梁たり。円観上人と申は、元は山徒にて御坐けるが、顕密両宗の才、一山に光有かと疑はれ、智行兼備の誉れ、諸寺に人無が如し。然ども久しく山門澆漓の風に随はゞ、情慢の幢高うして、遂に天魔の掌握の中に落ぬべし。不如、公請論場の声誉を捨て、高祖大師の旧規に帰んにはと、一度名利の轡を返して、永く寂寞の苔の扉を閉給ふ。初の程は西塔の黒谷と云ふ所に居を卜して、三衣を荷葉の秋の霜に重ね、一鉢を松華の朝の風に任せ給ひけるが、徳不孤必有隣、大明光を蔵さざりければ、遂に五代聖主の国師として、三聚浄戒の太祖たり。かゝる有智高行の尊宿たりと云へども、時の横災をば遁給はぬにや、又前世の宿業にや依けん。遠蛮の囚と成て、逆旅の月にさすらひ給ふ、不思議なりし事ども也。円観上人計りこそ、宗印・円照・道勝とて、如影随形の御弟子三人、随逐して輿の前後に供奉しけれ。其外文観僧正・忠円僧正には相随ふ者一人も無て、怪げなる店馬に乗せられて、見馴ぬ武士に打囲れ、まだ夜深きに鳥が鳴く東の旅に出給ふ、心の中こそ哀れなれ。鎌倉までも下し着けず、道にて失ひ奉るべしなんど聞へしかば、彼の宿に着ても今や限り、此の山に休めば是や限りと、露の命のある程も、心は先に消つべし。昨日も過ぎ今日も暮ぬと行程に、我はとは急がぬ道なれど、日数積もれば、六月二十四日に鎌倉にこそ着にけれ。円観上人をば佐介越前守、文観僧正をば佐介遠江守、忠円僧正をば足利讚岐守にぞ預けらる。両使帰参して、彼の僧達の本尊の形、炉壇の様、画図に写て註進す。俗人の見知るべき事ならねば、佐々目の頼禅僧正を請じ奉て、是を被見せに、「子細なき調伏の法也。」と申されければ、「去ば此僧達を嗷問せよ。」とて、侍所に渡して、水火の責をぞ致しける。文観房暫が程はいかに問れけれ共、落玉はざりけるが、水問重りければ、身も疲れ心も弱くなりけるにや、「勅定に依て、調伏の法行ふたりし条子細なし。」と、白状せられけり。其後忠円房を嗷問せんとす。此僧正天性臆病の人にて、未だ責ざる先に、主上の山門を御語ひありし事、大塔の宮の御振舞、俊基の隠謀なんど、有もあらぬ事までも、残所なく白状一巻に載せられたり。此上は何の疑か有るべきなれ共、同罪の人なれば、閣おくべきに非ず。円観上人をも明日問ひ奉るべき評定ありける。其夜、相摸入道の夢に、比叡山の東坂本より、猿共二三千群来て、此上人を守護し奉る体にて、並居たりと見給ふ。夢の告只事ならずと思はれければ、未明に預人の許へ使者を遣し、「上人嗷問の事暫く閣べし。」と被下知処に、預人遮て相摸入道の方に来て申けるは、「上人嗷問の事、此暁既に其の沙汰を致候はん為に、上人の御方へ参て候へば、燭を挑て観法定坐せられて候。其御影後の障子に移て、不動明王の貌に見させ給候つる間、驚き存て、先事の子細を申入ん為に、参て候也。」とぞ申しける。夢想と云、示現と云、只人にあらずとて、嗷問の沙汰を止られけり。同七月十三日に、三人の僧達遠流の在所定て、文観僧正をば硫黄が嶋、忠円僧正をば越後国へ流さる。円観上人計をば遠流一等を宥て、結城上野入道に預られければ、奥州へ具足し奉、長途の旅にさすらひ給ふ。左遷遠流と云ぬ計也。遠蛮の外に遷されさせ給へば、是も只同じ旅程の思にて、肇法師が刑戮の中に苦み、一行阿闍梨の火羅国に流されし、水宿山行の悲もかくやと思知れたり。名取川を過させ給とて上人一首の歌を読給ふ。陸奥のうき名取川流来て沈やはてん瀬々の埋木時の天災をば、大権の聖者も遁れ給はざるにや。昔天竺の波羅奈国に、戒定慧の三学を兼備し給へる独りの沙門をはしけり。一朝の国師として四海の倚頼たりしかば、天下の人帰依偈仰せる事、恰も大聖世尊の出世成道の如也。或時其国の大王法会を行ふべき事有て説戒の導師に此沙門をぞ請ぜられける。沙門則ち勅命に随て鳳闕に参ぜらる。帝折節碁を被遊ける砌へ、伝奏参て、沙門参内の由を奏し申けるを、遊しける碁に御心を入られて、是を聞食れず、碁の手に付て、「截れ。」と仰られけるを、伝奏聞誤りて、此沙門を刎との勅定ぞと心得て、禁門の外に出し、則ち沙門の首を刎てけり。帝碁をあそばしはてゝ、沙門を御前へ召れければ、典獄の官、「勅定に随て首を刎たり。」と申す。帝大に逆鱗ありて、『行死定て後三奏す』と云へり。而を一言の下に誤を行て、朕が不徳をかさぬ。罪大逆に同じ。」とて、則ち伝奏を召出して三族の罪に行れけり。さて此沙門罪なくして死刑に逢ひ給ぬる事只事にあらず、前生の宿業にてをはすらんと思食れければ、帝其故を阿羅漢に問給ふ。阿羅漢七日が間、定に入て宿命通を得て過現を見給ふに、沙門の前生は耕作を業とする田夫也。帝の前生は水にすむ蛙にてぞ有ける。此田夫鋤を取て春の山田をかへしける時、誤て鋤のさきにて、蛙の頚をぞ切たりける。此因果に依て、田夫は沙門と生れ、蛙は波羅奈国の大王と生れ、誤て又死罪を行れけるこそ哀なれ。されば此上人も、何なる修因感果の理に依か、卦る不慮の罪に沈給ぬらんと、不思議也し事共也。