観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・14/27
十四、 煩悩即菩提の事。無碍講衆の事。
衆生一心がひがめば煩悩といはれ、此の一心をひるがへして正路に向へば菩提の智恵なり。故に煩悩も菩提も共に一心の功能なり。之に依りて恵心の往生要集には花のたとへ取りて釈せり。一の木に花開く秋は菓をむすぶなり。花と云も菓と云もただ是一本の木の徳義なり。今煩悩、菩提と云ふも此の如く一心が花實也云々(往生要集卷上「應知念佛修善爲業因。往生極樂爲華報。證大菩提爲果報。利益衆生爲本懷。譬如世間植木開華。因華結果。得果餐受。)。今煩悩菩提と云ふも此の如く一心が花実なり云々。是を煩悩即菩提とは云也。但し常に人の煩悩即菩提と云は三毒強盛の當躰を取も直ならずそのまま菩提といふことは全く然るべからず。是は煩悩即菩提の道理に落居せず。非学者の所作なり。且は外道の見なり。されば是を釋には北天竺の無碍といふ人釈し玉へり。北天竺の無碍の人といふは煩悩即菩提なれば真実の菩提と云は煩悩の外に別に之無しといふて盛んに煩悩を発してこそ菩提よと云ふなり。日本にも近代無碍講衆(一向衆のこと)と云もの出来するなり。三毒の煩悩を盛んに発しながら極楽に往生するといふて、ほしひままにふるまふゆへに無碍講衆と名くなり。是則ち北天竺の無碍の人に同じ故なり。所詮此の事は天台の御釋に見へたり(摩訶止觀卷第八下「魔界即佛界而衆生不知。迷於佛界横起魔界。於菩提中而生煩惱。是故起悲。欲令衆生於魔界即佛界。於煩惱即菩提是故起慈。」)両巻の疏に云く、経には常念と称す則ち是正念也、煩惱の情を體達するに無所有。貪の際に住して即是實際なり。實際は四句を絶す、能も無く、所も無し、念の性は清淨なりと。
(觀音義疏卷下「問 離煩惱須智慧。但念豈得離耶。答 經稱常念即是正念。體達煩惱性無所有。住貪欲際即是實際。絶四句無能無所念性清淨。如此正念非是智慧。更何處覓智慧」)この釋を以て三毒の煩悩を即菩提と開く事を心に留て思ふべきなり。三川の入道寂照法師(俗名は大江定基。出家して天台僧、寂昭・三河入道・三河聖・円通大師とも称される。源信に天台教学を、仁海に密教を学び入宋。皇帝真宗から円通大師の賜号。杭州で没。今昔物語十九巻、能「石橋」、露伴「連環記」などにあり)の歌に「我が心 なににたとへん 方ぞなき さりとては又 秋の夜の月」これは真言の心月の心なり。わが心の月曇るときは三毒の煩悩に亡ぼされて生死の闇にまよふなり。さて我が心月が明らかに顕るる時は菩提の悟りなり。
「若有女人設欲求男。禮拜供養觀世音菩薩。便生福徳智慧之男。設欲求女。便生端正有相之女。宿殖徳本衆人愛敬」此の文は二求両願の文なり。女房の娘を求め男を求めんとて観音に祈誓するは二求也。此二求を満足する處を両願とは云なり。男を求めんとて観音を礼拝供養すれば即ち福徳智恵の男を儲るなり。男子には福智の二が肝要也。科註に云、福有れば則ち勢位高く昇るとも何の益かあらん。設ひ男子を持ちたりとも貧にして又愚痴ならば益無事也。さて女子をもとめば端正有相の女子を設くべしと見へたり。女房は醜(みめ)かたちが肝要也。されば釋に云、若し端正にして相有れば則ち夫人敬せらる。若し端正なければ夫人敬せられず。みめかたちよければ夫にも敬せらるるなり。又氏はなけれども玉の輿にものるなり。之に付てのぞみ多き中になんぞ女房の願ものに求男求女ばかりをいだすといふに女は子を儲くること専なり。