福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

Mさんからお便りを頂きました。

2013-12-16 | 法話
「仏様の好いように」
「今回、大変大きなお蔭が出ましたので、皆様にお礼と報告をさせていただきたいとおもいます。
長年皆様に応援していただいた、私の家族の事がやっと解決しました。「おかげ」のことは、前に内容は報告させていただいたので私が本当に頂いたお蔭の事を話していこうと思います。

 私が高原和尚様と出会ったのはもうずいぶん昔になります。どうしても「自分の」和尚様と出会いたくて10年くらい年前から祈ってやっと下北沢のお寺で護摩を焚いていた和尚様にお目にかかれたのです。

 今でもはっきり覚えていますが当時の私は出口が見えなくて状況は悪くなる一方で生きる気力すら失っていました。もう一歩も進めない、どこへ行っていいかも分らないと苦しみの真っ只中にうずくまっていたのです。

 その当時は家族の事だけでなく、なにもかもうまくいかずじまいでした。それから和尚様の護摩に一生懸命通い始めました。暑い日も寒い日も何日も何日も通い続けました。しかしこれだけ精進すればいくらなんでも普通の人なら出るであろうとおもわれる「おかげ」がいっこうに出ません。
 私は『本当に仏様は願いを叶えてくださるのか』『人は楽しそうに毎日を送っているのになぜ自分だけ苦しみ続けなければならないのか、なぜ自分の願いだけ叶わないのか』と何度も何度も考えました。仏様を何度も疑いました。しかしこの苦しみを解決できるのはどう考えても仏様しかいらっしゃいません。人の力ではどうすることもできないことも分っていました。信仰をやめてしまったとしてもこの悩みをもって行く当てもありませんでした。そうしてなおも拝み続けました。それでもおかげを受けることはできません。和尚様の護摩が終わるころになってもお蔭は出ません。それどころか身の回りでさらに悪いことが起こってしまいました。家族の事とは別の事で願をかけていたことが最悪の形で出てしまったのです。このときはさすがに『もう仏様は信じまい』と思い、『仏様、私は信仰を止めます』とまで仏様の前でいい放ってしまいました。

 しかしそれでもやはり仏様には手を合わせざるをえないのでした。祈りは続けました。このころは和尚様は「『仏様の好いようにしてください』と祈ればいいのではないですか」とおっしゃいました。わたしもそう拝むしかないと思いました。そう拝まざるをえない状況でした。しかしそうするとすこしずつ周りの状況が変化していったのです。そしてついに今年2月、家族の問題が劇的に全て解決したのです。いままで何十年と悩み続けてきた家族問題が一挙に解決したのです。
 これを一番喜んでくださったのは和尚様です。和尚様はいつも一緒に悩んで祈っってくださっていたからです。

 此の時わたしは本当の事が分った気がしました。「仏様の好いようにしてください」と拝むということは自分の執着心を捨てる事だったのです。自分が勝手にストーリーを作って執着しこのとおりにしてくれなきゃいやだと駄々をこねていたのです。苦しんだ挙句にこの執着心を根っこから捨てたとき返って大きな「おかげ」を頂くことができたのです。そして苦しみの中でこういう考えにたどり着けたということこそ最も大きな「おかげ」といえるのだはないかと考えました。
 いまでは仏様を疑うことはなくなりました。長年の苦しみを通して私自身本心から仏様を信じることができるようになったからです。今の私は平穏で幸せな日々を過ごせています。ここまでいつもいつも導いてくださった和尚様、温かく応援してくださった福聚講の皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。」
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