公事根源「祇園御霊会 (七月)十四日
此の祭りの日は禁中は異なることなし。馬長など催し遣はさるれども御覧はなし。祇園の社は貞観十二年に託宣のことありて山城の國に移し奉りしにや。素戔嗚尊の童にて武塔天神とも申すなり。昔武塔天神、南海の女子をよばひにい出ます時に日暮れて路のほとりに宿をかり給ふに彼の所に蘇民将来・巨旦将来といふ二人の者あり。兄弟にてありしが兄はまどしく、弟は富めり。ここに天神宿を弟の将来にかりたまふに許し奉らず。兄の蘇民将来にかり給ふに則ち貸し奉る。栗からを座として栗の飯を奉る。其の後、八年を経て御子を引き具してかの蘇民が家にいたり給ひて一夜の宿を貸しつることを喜ばせ給ひて、恩を報ぜんとて蘇民に茅の輪を著くべしとのたまふ。その夜より疫癘天下におこりて人民死すること数を知らず。その時ただ蘇民ばかり残りけり。後に武塔天神、我は速須佐雄神なりとのたまふ。今より後は疫癘天下におこらん時は蘇民将来の子孫なりといひて茅の輪をかけば此の災難をのがれむ、とのたまひけるにや。又祇園の縁起にのせていはく、天竺より北に國あり。九相と名く。其の國の中に園あり。吉祥といふ。其の園の中に城あり、城に王あり、牛頭天王と名く。又武塔天神ともいふ。沙渇羅龍王の女を后として八王子あり。八万四千六百五十四神の眷属ありと「いへり。御霊会の時、四条京極にて栗のごはんを奉るは蘇民将来の由緒とぞ承る。」