仏が涅槃に入られる時に、「我入滅すとも我所説の法は滅不滅である、我所説の法以て汝が師と為せよ」(佛遺教経)といわれた。自分の肉身、即ち親身は滅しても法身は常住である、肉としての自身は亡びても法としての自身を大切にせよと言われたのである。それを字義通りに大切にするために佛が滅せられた年の七月に大迦葉が五百の仏弟子を集めて一切経を結集したのであります。一切経というものは仏が一代の中に説かれたもので、その中に自分が自発的に説かれ、自分の理想を説き出されたものが「経」というので、昔はこれを単に法といっていた。法というのは理想というのでありますから、仏法というのは仏の理想、説法というのは仏が理想を説かれる、転法輪というのは仏が理想の輪を社会に転進して理想を実現せられるというような意味である。法界というのは仏の理想の行われる世界である。法身とは仏の理想のみの身ということである。昔は法といったが今は経といっております。
所が自分が自発的でなく、弟子が罪悪を犯すに随って制した戒律がある。生きた物を殺す、そういう行ないはしてはならぬと制せられたもの(随犯随制という)、それが法典となっているのであります。これを戒律といい律蔵という。経蔵というのは御経の蔵、律蔵は戒律の蔵、戒律を納めた文庫である。法典といえば国法とか、国の習慣とか歴史とかいうようなものを顧慮して作るものである。然るにこれらは一切構わないで真の理想から出たものが仏教の法典である。花井卓蔵博士も仏教の法典は純正な理想法典であるから重きをおかなければならぬということをいっております。論蔵というのは、仏弟子の作ったものである。この経律論を合せて三蔵という、三つの蔵に納めて区別する意味である、これが一切経である。一切というのは経ばかりではない、経律論の三つを三蔵といい又大蔵というのである。一切経、大蔵経というのは実は経ばかりではないが、主たるものについて名を立てたのである。その三蔵をみな知っているのを三蔵法師と名づける。
玄奘三蔵とか、義浄三蔵とかいう人がそれであります。その一切経の初めは迦葉が、仏が自分の説いた法を以て師匠とせよといわれたのに基づいて、その仰せを守って仏弟子五百人を集めて仏の説かれた法を集めて一切経を拵えた(ブッダ入滅後、王舎城郊外に五百羅漢が集まり、最初の結集が開かれた。五百結集。このときは、摩訶迦葉が座長となり、阿難と優波離が、それぞれ経と律の編集責任者となった。マガダ国の阿闍世王が大檀越といわれる)、そしてこれだけ仏の教えがあったとして残したのであります。残したといっても仏の入滅せられた年から凡そ四百七、八十年の間は文字にも何にも書いてなかった、無字の一切経で文字なしに空に覚えておったのである。するとそれじゃ怪しいものだという人があるでありましょうが、インドはなかなか怪しくない。バラモンの教えには三吠陀ベーダといって十万頌もあるものを今まで曽て書いたことはない、口から耳に伝えているのであります。それは一音々々を順に読み習い、またそれを逆に読み習い、また第一字から第三字、第五字から第七字というように文字を飛んで習い、それから第二字と第四字、第六字と第八字というように読み、それを合せて覚えるというふうに、記憶の方法は至れり尽せりで、練習に練習を重ねて覚えているのであるから忘れるだろうというようなご心配は要らない。しかしかかる大変なものを頭の中に詰め込んでおこうとする努力は非常にインド人には強いのでありますが、一方それがためにインドの文明は停滞するようになってきたのである。シナでは文字を覚えなければならぬ、それがために俊才は文字を覚えまたこれを使うのに非常に頭を労するので文明が自然停滞するようになったという学者もあるのでありますが、かかる努力の偏重はよほど文化に関係することであろうと思います。
所が自分が自発的でなく、弟子が罪悪を犯すに随って制した戒律がある。生きた物を殺す、そういう行ないはしてはならぬと制せられたもの(随犯随制という)、それが法典となっているのであります。これを戒律といい律蔵という。経蔵というのは御経の蔵、律蔵は戒律の蔵、戒律を納めた文庫である。法典といえば国法とか、国の習慣とか歴史とかいうようなものを顧慮して作るものである。然るにこれらは一切構わないで真の理想から出たものが仏教の法典である。花井卓蔵博士も仏教の法典は純正な理想法典であるから重きをおかなければならぬということをいっております。論蔵というのは、仏弟子の作ったものである。この経律論を合せて三蔵という、三つの蔵に納めて区別する意味である、これが一切経である。一切というのは経ばかりではない、経律論の三つを三蔵といい又大蔵というのである。一切経、大蔵経というのは実は経ばかりではないが、主たるものについて名を立てたのである。その三蔵をみな知っているのを三蔵法師と名づける。
玄奘三蔵とか、義浄三蔵とかいう人がそれであります。その一切経の初めは迦葉が、仏が自分の説いた法を以て師匠とせよといわれたのに基づいて、その仰せを守って仏弟子五百人を集めて仏の説かれた法を集めて一切経を拵えた(ブッダ入滅後、王舎城郊外に五百羅漢が集まり、最初の結集が開かれた。五百結集。このときは、摩訶迦葉が座長となり、阿難と優波離が、それぞれ経と律の編集責任者となった。マガダ国の阿闍世王が大檀越といわれる)、そしてこれだけ仏の教えがあったとして残したのであります。残したといっても仏の入滅せられた年から凡そ四百七、八十年の間は文字にも何にも書いてなかった、無字の一切経で文字なしに空に覚えておったのである。するとそれじゃ怪しいものだという人があるでありましょうが、インドはなかなか怪しくない。バラモンの教えには三吠陀ベーダといって十万頌もあるものを今まで曽て書いたことはない、口から耳に伝えているのであります。それは一音々々を順に読み習い、またそれを逆に読み習い、また第一字から第三字、第五字から第七字というように文字を飛んで習い、それから第二字と第四字、第六字と第八字というように読み、それを合せて覚えるというふうに、記憶の方法は至れり尽せりで、練習に練習を重ねて覚えているのであるから忘れるだろうというようなご心配は要らない。しかしかかる大変なものを頭の中に詰め込んでおこうとする努力は非常にインド人には強いのでありますが、一方それがためにインドの文明は停滞するようになってきたのである。シナでは文字を覚えなければならぬ、それがために俊才は文字を覚えまたこれを使うのに非常に頭を労するので文明が自然停滞するようになったという学者もあるのでありますが、かかる努力の偏重はよほど文化に関係することであろうと思います。