福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんより素晴らしい投稿をいただきました。

2021-11-21 | 講員の活動等ご紹介

「信仰雑感

今年も早いもので、秋半ば。間もなく、12月、師走がきます。今年も新型コロナウイルス騒動に見舞われ、多くの死者が出ました。合掌です。また、台風・地震・洪水などの自然災害にも見舞われ、多大の被害を出し死者を出しました。その他、政治、産業、農漁などあらゆる分野でも一日たりとも安穏とする日がなく、悲しく暗い事故や事件が起きていて、果たして日本という国はこのままでいいのだろうか、という危機感を否応なしに持つようになります。

 

この様な社会情勢と環境の中で、どう生きて行けばいいのだろうか。大袈裟でなく、私というごく小さな真面目な人間の悩み苦しみを脱却するためにどうしたら良いのか、懊悩の日々です。こうした阿鼻叫喚地獄から脱するために、究極の解決法として、“仏教”に救いを求めてきました。”信仰”と言えるかどうか分かりませんが・・・。

ともあれ、”救い“を求めて縋り付いているという状態です。果たして、お釈迦様・弘法大師様は、私の窮状を知って頂いて居られるかしらん。確かに、仏前に正座して経を唱え祈りを捧げて居る時は、確かに落ち着いた感じになります。しかし、一歩外に出ると、苦しく、寂しく、悲しい現実にひたらざるを得ない日常です。苦しみは解決しそうもありません。こんな時、信仰心は揺らぎ懐疑的になり「神仏は果たしておわすのか」、という疑問がわきます。他の信者の皆さんは、御大師様の霊験に預かったという事例を紹介されるのですが。こと私には、その機会を頂けないのでしょうか。寂しくなります。人間、齢八十過ぎてまでもなぜこうして悩み苦しまざるを得ないのか。なんだか自分がピエロを演じているような気がします。今、日本は未曽有の高齢社会になりました。私も、自分が八十を超えた人間になろうとは、つゆにも思いませんでした。お釈迦さまがおっしゃつた「生老病死の苦」は、事実です。七十代の健康と八十代の元気とは、その内容が違います、多分八十代の健康は、これまで健康体であった肉体が、弱ってきて、病気に罹患しやすくなっている筈です。ここで思うのですが、どうして生物は、動植物も含めて、最後は死ぬのでしょうか。一体誰が、命の終末を考えたのでしょうか。仏様?誰だか、謎ということしか分かりません。

そして、更に、残酷に感じることに、この世は徹底した弱肉強食の世界であることです。これも、悲哀の感情を超えた、厳然とした事実です。人間社会も同然です。私たちが、人間の自由・平等を唱えても、”格差”という名称の弱肉強食の現実があります。貧富の差の悲哀も生きている限り付きまとわれる運命です。ここでまた、果たして神仏は存在しているのかという疑問が首をもたげてきます。

この難問に、2500年前に、お釈迦さまは、こう答えておられます。「自分を救えるのは、自分自身である。他の、誰が助けてくれようか」と。

お釈迦さまは、こうも主張されました。「この世は、何か外部に居る不思議な存在に、お願いしても意味がない。何故なら、そんな存在は実際にはいないからである。この世は、誰かが作ったものでもないし、誰かがコントロールしているのでもない。この世はただ原因と結果の因果律によって粛々と機械的に動いているにすぎない」と。そんな非情な世界で、私たちは、歳をとり病気になり死んでゆく。助けて欲しい、と願っても、救済者はどこにもいない、そうなると、わが身を救う道は一つしかない。外から押し寄せる苦しみを苦しみと苦しみと感じないよう独自の在り方を、自助努力に

よって、作り上げて行くのである。どうすれば、そのような、自己改造が可能になるのか。これこそが、ブッダが追い求め、解決した問題であつた。ブッダは,何年もの間、修行を続け、その結果”悟り“を見つけたという。

「自分で自分を𠮟咤せよ。自分で自分を制御せよ。比丘(修行者)よ、自己を護り、正しい思いを持ち続けるならば

お前は、安楽に過ごすことが、出来るであろう。」(ブッダの弟子たちはサンガ(仏教僧団)の中で、ブッダの言葉を守り修行の日々送る。生活の基本はひたすら瞑想である。精神の集中、ただそれだけを行った。両足を組んで座り、目をわずかに開き、じっと精神を集中するのだ。外からの情報をシャットアウトして自分の全神経、全意識をすべて内側に振り向ける。瞑想によって、煩悩まみれの自分が徐々に清らかになっていくことは、なによりの喜びであり、安楽である。(注1))

 

今、わが国は、未曽有の社会変動の危機に遭遇している。人口構成比は少子高齢と老齢人口が年を追って増加しています。この様な社会変遷で思うのですが、今、わが国は文明の進化に対して、道徳の確立が追い付かず混乱した状態が起きているのではないかと思うのです。携帯電話が出現して、情報のやり取りはそのまま世に出たものですから、きちんと他人に迷惑がかからないよう気配りのマナーの確立が後手になり、電車の中で携帯電話の使い方をアナウンスせざるを得ないような状態です。また今度は、スマホが出てくると、鉄道駅のホームでスマホに熱中しながら歩くという危険極まる情景が見られます。これも文明の速さに、道徳が遅れている光景と思います。そして、私たち個々人にも、老後の生き方に対してどの様な形が望ましいのか、まだそのスタイルが確立していません。、今は一人一人の貧弱な人生観によつて生きているのだと思います。昔私が小学生の頃の家庭生活は、祖父母を中心にして卓袱台があり、彼らを囲んで食事をとったものでした。また、老齢の病人がいた家では、部屋に居り屏風を立てて、病人を隠し大声をたててはいけないと注意されたものでした。もう今では、こうした情景は見られなくなりました。一方、老齢者も、責任ある態度をとらねばならないと思います。典型的な事例では、八十を過ぎた老人が車を運転して歩行者をひき殺したり、店先に突っ込んだり、大事故を起こしています。論外です。こんな事故を人生の終盤にきて起こさないようにしなければなりません。最近の日本は、社会の至る所で、タガが外れているような気がします。

(注1)「ブッダ100の言葉」 佐々木閑 宝島社

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