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(慈雲)尊者の墨跡に就いて・・松坂旭信(字は帰庵。1891-1959 。岡山市真言宗法界院住職。真言宗大僧正。書画,短歌,陶芸にすぐれ、慈雲尊者の研究でも知られる。温和で書に秀でた為「今良寛」と称された。私も「観自在」の書を所有。)
「1、慈雲尊者は百不知童子傳に「筆をまたとるも、永字八法を知らず」と記された。この言葉は尊者の書に就いて考察するものの是非とも記憶せねばならぬ言葉である。私がかういうのは尊者が永字八法を知られなかったといふのではない。尊者は永字の八法に拘泥せられなかった。むしろ永字八法に囚われてゐる書家先生では尊者のやうな貴ち書はできないと確信する。
2、 尊者の書はなぜ貴いか。是は尊者が稀有の高徳であるからその徳風を慕うて尊者の書を学び断簡零墨といえども競うて珍蔵するのはいうまでもない。その徳風に就いてはいま私の述べる本旨ではない。今ここには尊者の書に就いてのべるのである。この立場から見て果たして尊者の書は貴いかというに、少しも掛け値なく実に貴いのである。それは何の点が書として立派であるかというに尊者の書がよく筆法にかなっているから貴いのではない。間架結構がよく七十二法にかなっているかあ尊いというのでもない。筆力が雄渾であるから貴というのでもない。然らば如何なる点で貴いのであるか。それは右にかかげたような箇条はすべて枝葉である。此の枝葉は根本の上に自ら備わっているのであって、其の根本となるものは尊者の書にそなわっているところの高雅なる書品である。
3、 書品は書の高下の分かれるゆえんである。ここに書の高下を云々するのは書の本質から言う事であって決して物理的評価を意味するものではない。書にはそれじれの書品がある。恰も人品に別があるのとおなじである。目鼻が美しいばかりで人品が高くもなく、たとへ肉付は豊かでなくとも何処となく人品の高雅な人のあるように,書の品もまたその通りである。何故書品がこのように分かれるかと謂えばそれはそれぞれの人品が自ずから書品として顕れるものである。品性の卑しい人の書は卑しく、高潔成人の書は尊い。鈍な人の書は鈍に、敏い人の書は敏い。それゆえ書は心画であるともいわれる。尊者がその高潔なる心境を現わされたのであるからその書の高雅であることは当然である。
4、 尊者の書を拝見して、脱俗した書であると評する人が多い。もちろん脱俗された尊者の書であるから俗臭を離れられていることはいうまでもない。しかし多くの人は桑門の書は或は無智であり。或は無茶であり、或は奇を衒うた寧ろ俗臭の甚だしい書を脱俗してゐるように評する人が多い。尊者の書はこのような意味でならば脱俗した書ではない。それらの人々よりも一段高い気品を備えてゐられる。
5、 尊者の書にはすこしも奇を衒うところがない。これは尊者の風格のしからしむるところである。尊者の御青年期より八十七歳にいたるまで、根本の理想は釈尊御在世の正方の光輝をまのあたりに実現するといふことであった。正法律を守られるということはあたかも眼晴を守られるようであった。念願を離れないのは正法律であった。云うまでもなく晩年には心の欲するところに随はれて一として規を越えられなかった。そのご一生の間、一事として奇を衒われたやうな行蹟がなかった。このような人格の反映であるから尊者の書においては少しも狂態はない。飄逸の風も見出さない。この意味において尊者の書は彼の寂厳和尚の書の蛟竜雲を起こし縦横放逸な書と遥かに趣を殊にしてゐる。
6、 尊者の書品にはたしかに六朝以前の風がある。尊者は典籍を評して、支那の典籍の中で依憑とすることのできるのは孔老の書であってそれ以降の賢人の説は多く用いるに足らないと評せられた。是ほどの識見を持ち、葛天子の民を以て自ら任じられた尊者の事であるから自ら真書において痙鶴銘(王義之の書体)の風があるのは蓋し偶然ではない。尊者の書は決して方人の書ではない、堂々としてせまらざる高風がある。
7、 尊者は誰を学ばれたのであろうか。是は今より考察する何らの資料がない。しかし長谷寶秀先生がかって私に語られた言葉に、尊者は細井廣澤の書を学ばれたといふことであると。このことについて私は思ふに、尊者は三十歳前後に於いて広澤の書を学ばれたであろうと思ふ。
その理由は尊者の三十五歳ころに尼衆の為に書かれた習字手本が現存してゐる。それは長栄寺と高貴寺とに秘蔵せられてゐる。この書風は後年の尊者の書風とは全然趣のちがったものであって、其の書風には確かに廣澤の書の味を存している。その当時、廣澤は天下を風靡した書家であって、廣澤の習字手本が多数出版せられ普及せられていたものである。それゆえ尊者がその当時の書に廣澤の風があると想像しても無理ではない。それから後、此の風を脱して、約五十歳ころからのちは変化はないようである。而して晩年になられるに従ってますます円熟せられて悠々自適せられた妙蹟をものにせられたのである。
8、 尊者の書はその御生存中、一面には尊者の高風を慕うもの、一面には尊者の書美を賞観するもの、それぞれの趣旨からして尊者の書を賞玩する人が甚だ多かった様である。その分布の範囲は摂、河、泉、大和、播州、京都、阿波に最も多くその他の地域においても散在している。京阪地方では私の目に触れたものだけでも殆ど千幅に近い数である。御遷化御百二十年を過ぎた今日なお多数の残存していることは尊者が非常にたくさんの書を揮毫されたという事を想像できる。
9、 河内國名所図会は尊者の御在世中に出版せられた。その図版に高貴寺の縁起をのせてゐる。その文中に当時此の寺に慈雲尊者が住せられてゐる事を記し、かつ其の律門の大将であることと、筆跡の妙であることを記している。
10、 日本書画名鑑、近世書画一覧など、此の種の書物において釈門の書家として尊者の名を洩らしたものはない。自分の見るところよりすれば尊者の書は大徳歴代、黄檗歴代の書の上に置くべきであって決して劣れるものではない。
11、 尊者の正楷は少ない。書幅とするような大字では神号を書かれた楷書を見ることはあるが、其の他のものにおいては殆どないといってもよい。細字においては印信等に楷書を見るが其の他の場合は多く行書である。
12、 尊者の草書はすべて独草體であって決して連面体ではない。連綿糸柳の風を尚ぶ仮名名字においてすら尊者は多くの場合独草體である。仮名字においては時として連綿體の場合も見受ける。しかし此の時と雖も連綿として新柳の春風にゆれるが如き妙趣を現わすのが本旨でない。尊者の書には連綿流動の趣を求むることはできないけれども、其の代わり謹厳にして侵すことのできない高士の風韻を備へてゐる。
13、 尊者の大字は威風堂々として天下を呑む風がある。此の大字に於けて餘裕有り迫らざる所が細字の上にも自らそなはってゐる。
14、 尊者の書には布置の妙がある。尊者は細事を忘れずしてしかも細事になずまず全體に亘って概観するの達識がある。仏教教理に於いても真言・禅・律それぞれの教学に精通せられて、而も其の一面にのみ囚われず、仏教そのものを大観される丈の卓識がある。尊者は書においても一字一字の用筆をゆるがせにせられないと同時に,紙面全體に亘っての布置結構の妙を得てゐられる。是はただ尊者が熟練の結果として得られたものであると云ふ丈ではない。是は全く尊者の大人物であることが此の布置の上にも現はれてゐるものであると確信する。
15、 尊者の用筆に就いては、或は竹筆と云ひ、或は檜皮筆と云ひ、或は藁筆と云ひ、或は奉書筆と云ひ、或は毛筆と云ふ。御遺墨から推測すると、是れ等の筆を用ひられたことは明かである。しかし、十中八九は毛筆である。多くの人は尊者が禿筆を以て雄渾な書をものせられたのを見て、すべて竹筆であるやうに思ひ、また檜皮筆であるやうに思ふのは誤りである。禿筆を呵して揮毫せられることはただに大字ばかりでなく、細字に於いても禿筆を用ひられたやうである。此の尊者の用筆の関係からして自然独草體になり易く、連綿體になり得なかったのであらうと思ふ。それが却って穆穆如如たる尊者の心懐を表現されるに適合して居ったと思ふ。
16、 尊者の書は見るべき書せあって習ふべき書ではない。尊者の書の絶妙な點は尊者の高雅なる人格のあらはれたところにあるのであって、決して結構と運筆の妙とによるものではない事は既に述べた。それ故若し書を学ぼうとするものが尊者の書を学ぶならばそれは小学生が大学生の真似をするやうなものである。書を学ぼうとする者は、必ず晋唐に心をはせて、字々の結構と運筆とを法の通りに学ぶべきである。その後に於いて尊者の書品を吟味するならば大いに得るところがあるであらう。
17、 尊者の書の尊ばれる所以は、尊者の偉大なる人格の表現されたところにある。尊者の悠然として南山を見ると云ふせまらざる心懐が尊者の書をして尊からしめる所以である。(終わり)
「1、慈雲尊者は百不知童子傳に「筆をまたとるも、永字八法を知らず」と記された。この言葉は尊者の書に就いて考察するものの是非とも記憶せねばならぬ言葉である。私がかういうのは尊者が永字八法を知られなかったといふのではない。尊者は永字の八法に拘泥せられなかった。むしろ永字八法に囚われてゐる書家先生では尊者のやうな貴ち書はできないと確信する。
2、 尊者の書はなぜ貴いか。是は尊者が稀有の高徳であるからその徳風を慕うて尊者の書を学び断簡零墨といえども競うて珍蔵するのはいうまでもない。その徳風に就いてはいま私の述べる本旨ではない。今ここには尊者の書に就いてのべるのである。この立場から見て果たして尊者の書は貴いかというに、少しも掛け値なく実に貴いのである。それは何の点が書として立派であるかというに尊者の書がよく筆法にかなっているから貴いのではない。間架結構がよく七十二法にかなっているかあ尊いというのでもない。筆力が雄渾であるから貴というのでもない。然らば如何なる点で貴いのであるか。それは右にかかげたような箇条はすべて枝葉である。此の枝葉は根本の上に自ら備わっているのであって、其の根本となるものは尊者の書にそなわっているところの高雅なる書品である。
3、 書品は書の高下の分かれるゆえんである。ここに書の高下を云々するのは書の本質から言う事であって決して物理的評価を意味するものではない。書にはそれじれの書品がある。恰も人品に別があるのとおなじである。目鼻が美しいばかりで人品が高くもなく、たとへ肉付は豊かでなくとも何処となく人品の高雅な人のあるように,書の品もまたその通りである。何故書品がこのように分かれるかと謂えばそれはそれぞれの人品が自ずから書品として顕れるものである。品性の卑しい人の書は卑しく、高潔成人の書は尊い。鈍な人の書は鈍に、敏い人の書は敏い。それゆえ書は心画であるともいわれる。尊者がその高潔なる心境を現わされたのであるからその書の高雅であることは当然である。
4、 尊者の書を拝見して、脱俗した書であると評する人が多い。もちろん脱俗された尊者の書であるから俗臭を離れられていることはいうまでもない。しかし多くの人は桑門の書は或は無智であり。或は無茶であり、或は奇を衒うた寧ろ俗臭の甚だしい書を脱俗してゐるように評する人が多い。尊者の書はこのような意味でならば脱俗した書ではない。それらの人々よりも一段高い気品を備えてゐられる。
5、 尊者の書にはすこしも奇を衒うところがない。これは尊者の風格のしからしむるところである。尊者の御青年期より八十七歳にいたるまで、根本の理想は釈尊御在世の正方の光輝をまのあたりに実現するといふことであった。正法律を守られるということはあたかも眼晴を守られるようであった。念願を離れないのは正法律であった。云うまでもなく晩年には心の欲するところに随はれて一として規を越えられなかった。そのご一生の間、一事として奇を衒われたやうな行蹟がなかった。このような人格の反映であるから尊者の書においては少しも狂態はない。飄逸の風も見出さない。この意味において尊者の書は彼の寂厳和尚の書の蛟竜雲を起こし縦横放逸な書と遥かに趣を殊にしてゐる。
6、 尊者の書品にはたしかに六朝以前の風がある。尊者は典籍を評して、支那の典籍の中で依憑とすることのできるのは孔老の書であってそれ以降の賢人の説は多く用いるに足らないと評せられた。是ほどの識見を持ち、葛天子の民を以て自ら任じられた尊者の事であるから自ら真書において痙鶴銘(王義之の書体)の風があるのは蓋し偶然ではない。尊者の書は決して方人の書ではない、堂々としてせまらざる高風がある。
7、 尊者は誰を学ばれたのであろうか。是は今より考察する何らの資料がない。しかし長谷寶秀先生がかって私に語られた言葉に、尊者は細井廣澤の書を学ばれたといふことであると。このことについて私は思ふに、尊者は三十歳前後に於いて広澤の書を学ばれたであろうと思ふ。
その理由は尊者の三十五歳ころに尼衆の為に書かれた習字手本が現存してゐる。それは長栄寺と高貴寺とに秘蔵せられてゐる。この書風は後年の尊者の書風とは全然趣のちがったものであって、其の書風には確かに廣澤の書の味を存している。その当時、廣澤は天下を風靡した書家であって、廣澤の習字手本が多数出版せられ普及せられていたものである。それゆえ尊者がその当時の書に廣澤の風があると想像しても無理ではない。それから後、此の風を脱して、約五十歳ころからのちは変化はないようである。而して晩年になられるに従ってますます円熟せられて悠々自適せられた妙蹟をものにせられたのである。
8、 尊者の書はその御生存中、一面には尊者の高風を慕うもの、一面には尊者の書美を賞観するもの、それぞれの趣旨からして尊者の書を賞玩する人が甚だ多かった様である。その分布の範囲は摂、河、泉、大和、播州、京都、阿波に最も多くその他の地域においても散在している。京阪地方では私の目に触れたものだけでも殆ど千幅に近い数である。御遷化御百二十年を過ぎた今日なお多数の残存していることは尊者が非常にたくさんの書を揮毫されたという事を想像できる。
9、 河内國名所図会は尊者の御在世中に出版せられた。その図版に高貴寺の縁起をのせてゐる。その文中に当時此の寺に慈雲尊者が住せられてゐる事を記し、かつ其の律門の大将であることと、筆跡の妙であることを記している。
10、 日本書画名鑑、近世書画一覧など、此の種の書物において釈門の書家として尊者の名を洩らしたものはない。自分の見るところよりすれば尊者の書は大徳歴代、黄檗歴代の書の上に置くべきであって決して劣れるものではない。
11、 尊者の正楷は少ない。書幅とするような大字では神号を書かれた楷書を見ることはあるが、其の他のものにおいては殆どないといってもよい。細字においては印信等に楷書を見るが其の他の場合は多く行書である。
12、 尊者の草書はすべて独草體であって決して連面体ではない。連綿糸柳の風を尚ぶ仮名名字においてすら尊者は多くの場合独草體である。仮名字においては時として連綿體の場合も見受ける。しかし此の時と雖も連綿として新柳の春風にゆれるが如き妙趣を現わすのが本旨でない。尊者の書には連綿流動の趣を求むることはできないけれども、其の代わり謹厳にして侵すことのできない高士の風韻を備へてゐる。
13、 尊者の大字は威風堂々として天下を呑む風がある。此の大字に於けて餘裕有り迫らざる所が細字の上にも自らそなはってゐる。
14、 尊者の書には布置の妙がある。尊者は細事を忘れずしてしかも細事になずまず全體に亘って概観するの達識がある。仏教教理に於いても真言・禅・律それぞれの教学に精通せられて、而も其の一面にのみ囚われず、仏教そのものを大観される丈の卓識がある。尊者は書においても一字一字の用筆をゆるがせにせられないと同時に,紙面全體に亘っての布置結構の妙を得てゐられる。是はただ尊者が熟練の結果として得られたものであると云ふ丈ではない。是は全く尊者の大人物であることが此の布置の上にも現はれてゐるものであると確信する。
15、 尊者の用筆に就いては、或は竹筆と云ひ、或は檜皮筆と云ひ、或は藁筆と云ひ、或は奉書筆と云ひ、或は毛筆と云ふ。御遺墨から推測すると、是れ等の筆を用ひられたことは明かである。しかし、十中八九は毛筆である。多くの人は尊者が禿筆を以て雄渾な書をものせられたのを見て、すべて竹筆であるやうに思ひ、また檜皮筆であるやうに思ふのは誤りである。禿筆を呵して揮毫せられることはただに大字ばかりでなく、細字に於いても禿筆を用ひられたやうである。此の尊者の用筆の関係からして自然独草體になり易く、連綿體になり得なかったのであらうと思ふ。それが却って穆穆如如たる尊者の心懐を表現されるに適合して居ったと思ふ。
16、 尊者の書は見るべき書せあって習ふべき書ではない。尊者の書の絶妙な點は尊者の高雅なる人格のあらはれたところにあるのであって、決して結構と運筆の妙とによるものではない事は既に述べた。それ故若し書を学ぼうとするものが尊者の書を学ぶならばそれは小学生が大学生の真似をするやうなものである。書を学ぼうとする者は、必ず晋唐に心をはせて、字々の結構と運筆とを法の通りに学ぶべきである。その後に於いて尊者の書品を吟味するならば大いに得るところがあるであらう。
17、 尊者の書の尊ばれる所以は、尊者の偉大なる人格の表現されたところにある。尊者の悠然として南山を見ると云ふせまらざる心懐が尊者の書をして尊からしめる所以である。(終わり)