三代実録 / 貞観十五年(873)十二月廿二日癸丑条
「廿二日癸丑。是より先、大宰府言く、『 去九月廿五日 新羅人卅二人 一隻の船に乗り対馬島岸に漂着す。 島司は使者を差加し府に送り 即ち其身を禁じ鴻臚館に着す。』 是日 勅して曰く、『 新羅人は姦を挾くこと年久しく 兇毒未だ悛ず 疑ふらくは亦た流着之体にて 搆て隙を候の謀 宜しく重ねて搜検を加へ 情状を審覈して早く放帰せしむべし。』」
(廿二日、これより先、大宰府が言うには、去る九月廿五日に新羅人卅二人が一隻の船に乗り、対馬島の岸に漂着した。島司は使者を差し加え府に送った。すぐにその身柄を拘束し、鴻臚館に着いた。この日、勅して言うには、新羅人は姦をいだくこと年久しく、兇毒はいまだ改めていない。疑うらくはまた流着の体で、隙をうかがい謀をしているのではないかと。よく重ねて搜検を加え、情状を詳しくとり調べて、早く放ち帰しなさいと。)
(貞観十一年(869年)六月には「貞観の入寇」があり、新羅の海賊が艦二艘に乗り筑前国那珂郡(博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げていますがこの直後にも拘わらず新羅の漂流民を返してやっているのは当時から日本人は優しかったのでしょう。)