今日は慶祚阿闍梨御入滅の日
以下「真言傳」に依ります。
「慶祚阿闍梨は智弁僧正の弟子なり。顕密兼学の碩才なり。大阿闍梨の位にて秘教弘通、化度利生、数年を経たり。或は神呪を誦し或は法華を読むに口より光明を放ち、眼に化佛を礼す。病つきて限りなりけるときまでも後生いかがあらんと頻りに不審せられければ弟子ども是を聞きて臨終正念の為面々不動護摩若しくは供などを行じけり。其の後阿闍梨の云く、此の程いささかも眠ば必ず不動を夢に見給、いかなる事にか、さればよも悪趣にはおもむかじ、との給ひける時、弟子おのおの御祈に不動法を行じ侍る也と申しければ、頼もしき事かなとて頻りに感じ給ひにけり。後、寛仁三年1019十二月二十二日入滅。行年六十五。」
猶、今昔物語には慶祚阿闍梨の元で村上天皇の御子大斎院が御出家された話が載っています。
「今昔物語集巻十九「村上天皇の御子、大斎院出家の語」 第十七
今昔、大斎院(選子内親王
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwimwOL_jLHwAhVGyIsBHSPnDqcQFjAAegQIAhAD&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E9%2581%25B8%25E5%25AD%2590%25E5%2586%2585%25E8%25A6%25AA%25E7%258E%258B&usg=AOvVaw2eNHe_2YWbrcGsY9_k8F3H)
と申すは、村上の天皇の御子に御ます。円融院天皇は御兄に御せば、其の御時に斎院には立せ給へる也。其の後、斎院にて御ます間、世に微妙く、可咲くてのみ御ませば、上達部・殿上人、絶えず参れば、院の人共も緩(たゆ)む事無く打ち解けずしてのみ有れば、「斎院許の所無し」となむ、世の人、皆云ひける。
而る間、漸く世も末に成り、宮の御年も老に臨ませ給ひにたれば、今は殊に参る人も無し。然れば、院の有様も、参る人も無ければ、打ち解けず。亦、若かりし人も、皆老ひたれば、心にくがりて、参る人も無きに、後の一条の院の天皇(後一条天皇)の御代の末の程に、心有ける殿上人、四五人許、西の雲林院の不断の念仏は九月の中の十日の程の事なれば、其の念仏の終の夜、月のえもいはず明かりけるに、念仏をおがまむが為に、此の殿上人共、雲林院に行て、丑の刻許に返けるに、斎院の東の門の細目に開たりければ、近来の殿上人・蔵人は斎院の内をはかばかしくも見えねば、「此る次に、院の内、窃に見む」と云て入ぬ。
夜深更ぬれば、人影も為ず、東の屏の戸より入て、東の対の北面の檐(のき)に密に居て見れば、御前の前栽、心に任せて高く生ひ繁たり。「つくろふ人も無きにや有らむ」と、哀れに見ゆ。露は月の光に照らされて、きらめき渡たり。蟲の音は様々に聞ゆ。遣水の音のどやかに流れたり。其の程、つゆ人の音無し。船岳下(ふなおかおろし)の風、ひややかに吹ければ、御前への御簾の少し打ち動くに付て、薫(たきもの)の香、えもいはず馥(かうばし)くひややかに匂ひ出たるを聞くに、御隔子(みかうし)は下げたらむに、此く薫(たきもの)の匂の花やかに聞ゆれば「いかなるにか有らむ」と思て、見遣れば、風に吹かれて御几帳の裾ぞ少し見ゆ。早う御隔子も下されで有ける也けり。月など御覧ずとて、下されざりけるにや有らむ、と思ふ程に、奥深かに、箏の音、少しばかり聞ゆ。律に立たれて、平調の音なり。髴(ほのか)に聞けば、掻合せ、楽一つ許有り。此れを聞くに、めでたき事限無し。
箏の音、せずに成ぬれば、今は内に返り参なむと為る程に、一人の云く「此く、めでたく可咲き御有様を人も聞けりと思食さむに、女房に知らしめばや」と云へば、「現に、然も有る事也」とて、寝殿の丑寅の角の戸の間は、人参て女房に会ふ所也。住吉の姫君の物語(住吉物語・継子であった中納言の姫君が、四位少将との仲を妬む継母の悪計を避けて住吉の尼の許へ隠れるが、やがて長谷の観音の導きで尋ねてきた少将に再会し、都へ戻って幸福な暮らしを送るという物語)書たる障紙立てられたる所也。其に、人、二人許歩み寄て、気色ばめば、兼てより女房二人許居たりけり。殿上人も、此の女房有らむとも知らぬに、女房居たれば、思ひも懸けず思ゆ。女房、二人許よるなりより物語して、月の明かりければ、居明さむ、と思て居たりけるに、此の思ひも懸ぬ人々の参たれば、いみじく哀れに思ひたる気色有り。院も聞し食して、昔し思しめし出て、あはれに思しめしけむかし。
昔の殿上人は、常に参て、可咲き御遊びなども常に有ければ、御箏・御琵琶など常に弾きなどしつつ遊けるに、今は絶て然る事も無ければ、参る人も無し。適ま参ると云へども、さの如きの遊びする人も無きぞ、口惜く思食けるに、今夜は月の明ければ、昔を思し食し出て、哀れに思し食して、御物語などせさせ給て、御殿籠らざりけるに、夜のいたくふけぬれば、物語申す人共も、御前にうたた寝にけり。院は、御目の醒させ給ひければ、御箏を手扣(てまさぐり)に遊ばしける程に、此く人々の参たりければ、昔めきて、哀れになむ思しめしける。此の参たる人々は、此の様の事、少しばかりすなり、と聞し食けるにや、御簾の内より、御箏・琵琶など出させ給へりければ、わざとは無けれども、弾合せて、楽一つ二つ許弾く程に、夜も明け方に成れば、内に返り参ぬ。殿上にして、哀れに面白かりける由を語ければ、不参の人々は、口惜き事になむ思ける。
其の後、其の年十一月に、忍て斎院を出させ給て、□□と室町と云ふ所に御まして、其より三井寺の慶祚阿闍梨(平安時代中期の天台宗僧・増賀や源信にも仰がれた。大津市微妙寺旧地には慶祚阿闍梨入定窟あり)の房に御まして、御髪を下して、尼に成せ給ひにけり。其の後は、道心を発して、偏に弥陀の念仏を唱へて、終り極て貴くしてなむ、失させ給ひにけり。
「現世も微妙く可咲しくして過させ給ひにしかば、後生は罪深くや御しまさむずらむ」と、皆思ひけるに、御行ひ緩む事無く貴くして、「現に極楽に往生し給ひぬらむ」とて、入道の中将(源成信、選子内親王の甥、美男子で照る中将と言われたが選子内親王と同じく慶祚阿闍梨に出家)も、最後に参り会て、喜び貴ばれけるとなむ、語り伝へたるとや。」
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