第七四課 聖徳太子仰讃
聖徳太子さまを仏教徒が尊崇し奉るのは、太子さまが、高貴の御身分の方であらせられたのに、親しく仏教を弘通せられたということばかりでありません。それももちろんありますけれども、なおその上に、太子さまの仏教に対する御理解の深さに対して人々は渇仰するのであります。御理解の深さというよりは独創の御卓見と言った方が当っているのであります。つまり仏教に対する御実力であります。
太子さまは、仏教をただ頭や精神上のことばかりと解釈なさらずに、直ちに現実上、生活上のこととして、その長所を採択なされました。御摂政中の万般の施設、そのいずれとして、この御見解より流出せないものはありません。そして、その御施設のいちいちが、また、ぴたりぴたりと当時の日本国民の実情に当て嵌っているのであります。
かくのごとく、太子さまは、仏教から大乗精神を活捉されましたが、それを応用せらるるに際しましては、何物にも捉われない自由な立場に立たれました。ただ参考としては、当時の国民実情に対する透徹した洞察あるのみであります。これこそ、真の御卓見であります。
憲法十七条を制定せられて、臣民に、政治、道徳の帰趨を知らしめられ、支那大陸文化の輸入を図って産業治生の途を講ぜられ、施薬、療病の諸院を興して貧民を救恤せらるる等、仏教の生活化、理想の現実化に向って力を尽されました。別して造塔、起仏に御熱心にて、自ら七寺(四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺、池後いけじり寺、葛城寺)を建立せられた外、諸国にも寺院の配在を奨励せられたのは、国家鎮護の役目とともに、庶民をして和恭の心を発得せしめん御心よりであります。
太子が摂政の任にお就きになった推古朝は、日本に公に仏教が入った欽明朝の時より四十年余りしか経っておりません。しかも、それまでに輸入された宗派は、三論宗などというまだ本当に成熟した大乗仏教ではありません。
成熟した大乗仏教は、ちょうど、この四十年間ほどの間に、支那大陸で、天台大師がしきりに研鑽講述しつつあったときで、日本にはまだあからさまに、その影響はなかったときであります。そういう未開の仏教時代の日本で、単的明確に大乗仏教の真義を把握された太子さまは、天才と申上げていいか、直覚力の鋭いお方と申上げていいか、ただただ驚嘆の外はありません。
太子さまは、万機を摂政せらるるお忙しき中に、経を講ぜられ、また、その註釈を作られましたが、その経は、法華経ほけきょう、勝鬘経しょうまんぎょう、維摩経ゆいまぎょうの三つでありまして、大乗経典中の最も大乗的のものであります。
大乗というのは何かと申しますと、一口に言いますれば、治生産業ことごとく仏法にあらざるなしという大見解に立つ主張でありまして、消極的に隠遁して、独り清く澄し込む小乗仏教とは反対であります。そして法華経はその哲理と実行の勧めを説いた経巻であり、維摩経は維摩居士という俗間の老練な一男性をして、その大乗主義の体験を物語らしめたもの、また勝鬘経は勝鬘夫人という若い美しい女性をしてその教義を述べさしたもの、いずれも、経の目的は現実生活の理想化にあります。人間、無私な態度を以て、慈悲の心を湛えつつ、日常生活に励むところに仏教の全体がある。仏教はそれ以外の何物でもない。国家のため、社会のため、当面の職務に誠意を尽して行く、これ仏教の全修業である。この純一無雑の生活、すなわち仏法を説いたのが法華経はじめ他の二経の精神であります。かかることぐらいは仏教でなくとも判っていると言う人があれば、それはまだ仏教というものを知らない人であります。無私とか、慈悲とか、誠意とか、勇猛心とかいうことは、限りもなく、上に上があるもので、これで行き止まりというところはありません。それで、いろいろの方法でこれを私たちの精神肉体より磨き出して行こうとする。そして磨き出したものを以て刻々に個人生活、社会生活、国家生活の上に、光を照らし添えて行こうとする。ここに仏教の修業の段階があるのであります。
大乗仏教の趣意が、すでに現実上にあるのでありますから、法華経が理を説くかたわら、維摩、勝鬘の二経が在俗の士女によって説かしめられてあるのは大いに意味があるのであります。
太子さまは経の御選択の上にも時代を抽んでた独創の卓見をお示しになったばかりでなく、自ら執筆された経の註釈書すなわち御疏ごしょを拝しますと、御趣旨はいよいよ明らかにされて来るのであります。故に御疏は、法華、維摩、勝鬘等の大乗経典を解そうとするものにとって、今日に至るもなお、重要な指針の書となっているのであります。
太子さまは、文治一方のお方かと申しますと、なかなかそうではありません。時によっては勇猛鬼神を怖れしめるお働きもなさったのであります。
それは蘇我馬子とともに、物部守屋を誅伐された時でありました。御齢は十四歳でいられました。束髪ひさごはなにして打もの執って従軍されましたが、敵勢が盛んなるを御覧になって、仏天の加護を得ずんば願成り難しと、白膠木ぬりでのきを取りて四天王の像を作り、これを頂髪たきふさに籠められて、それから馳せ向われたと、伝えられております。四天王とは、内心慈悲を蓄えながら、方法上、忿怒ふんぬの姿において人々を信服せしむる慈勇の魂を象徴したものであります。その像を髪に籠められて眦まなじりを決して睨み立たれた美しく若き皇子みこの御勇姿は、真に絵のようであったろうと拝察されます。摂津の四天王寺は、このとき勝利を得られた太子さまが、加護報謝のため、戦の後でお建てなされた寺だと伝えられております。
太子さまの、この現実理想化の大乗精神は、後世、心ある仏教家たちの渇仰するところとなりまして、中にも平安朝の伝教大師は、太子さまの御精神を師教と仰ぎ奉り、御廟前に加護を祈りました。鎌倉時代の親鸞聖人は聖徳奉讃の和讃を作って歎慕の意を表せられております。
聖徳太子さまの大乗仏教的聖旨は、日本の国民性とともに万代不易に継ぎ伝わり、渇仰は永遠に尽きせぬものであります。
(・聖徳太子の御真言等はここにあります。
・親鸞上人の「徳奉讃」です。
(83)
仏智不思議の誓願を 定聚に帰入して 処の弥勒のごとくなり
(84)
救世観音大菩薩 聖徳皇と示現して 多々のごとくすてずして 阿摩のごとくにそひたまふ
(85)
無始よりこのかたこの世まで聖徳皇のあはれみに 多々のごとくにそひたまひ 阿摩のごとくにおはします
(86)
聖徳皇のあはれみて 仏智不思議の誓願に すすめいれしめたまひてぞ 正定聚の身となれる
(87)
他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて 如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし
(88)
大慈救世聖徳皇 父のごとくにおはします 大悲救世観世音 母のごとくにおはします
(89)
久遠劫よりこの世まで あはれみましますしるしには 仏智不思議につけしめて 善悪・浄穢もなかりけり
(90)
和国の教主聖徳皇 広大恩徳謝しがたし 一心に帰命したてまつり 奉讃不退ならしめよ
(91)
上宮皇子方便し 和国の有情をあはれみて 如来の悲願を弘宣せり 慶喜奉讃せしむべし
(92)
多生曠劫この世まで あはれみかぶれるこの身なり 一心帰命たえずして 奉讃ひまなくこのむべし
(93)
聖徳皇のおあはれみに 護持養育たえずして 如来二種の回向に すすめいれしめおはします
以上聖徳奉讃十一首」)