第七五課 日本の仏教
印度が仏教の原料産出地とすれば、支那は加工、輸出地であります。そして日本は輸入消費地であります。しかし、ただの輸入消費ではありません。輸入するにも、国土民情に適したものを篩ふるい選より、そしてさらにこれを民族精神で精製し直し、全く日本的の仏教にして消費し来ったのであります。故に日本の仏教は、印度の仏教とは大変な相違があり、支那の仏教ともよほど異なっております。
日本へ輸入した仏教は大乗仏教ばかりであります。奈良朝以前には少しは小乗仏教も入ったようでありますが、土地に適さない種子の萎しなびてしまうように、積極的、進取的な日本民族の間には、その小乗仏教はたちまちにして萎びてしまいました。平安朝以後は堂々たる大乗仏教の天下であります。この大乗仏教のみ日本に根付いたという理由は、大乗仏教の現実理想化の思想、無私と慈悲を説く思想、個人主義を排斥して社会生活、国家生活に重きを置く思想、光明的進取的の思想等、ことごとく日本の民族精神に共鳴せられるところのものであるからであります。それで、この種の仏教が日本に根付き、民族の文化を啓発すると同時に、仏教そのものもまた、民族より保護発達を遂げしめられました。日本民族の文化と大乗仏教の発達とは、持ちつ持たれつの関係でありました。昔の印度で書き記されたある経論に、東方に大乗経典有縁の国があって、仏教は最後にそこに駐とどまると予言してあるそうでありますが、この現状から言えば予言は当っております。今日、大乗仏教の行われている国は日本ばかりであります。他の仏教国と言われる国は、多少大乗はあっても名ばかりで、実は小乗が行われているのであります。
さて、その大乗教義が、どのように日本民族の発展に役立って来たかと申しますと、まず第一に国民生活上、和恭勤勉の気風を涵養したことであります。聖徳太子が御自ら法華経、維摩経ゆいまぎょう、勝鬘経しょうまんぎょうの三経を講述、註疏せられ、造仏起塔に努められたのも大乗精神の現実理想化に依られたものであります。法華経は、大乗中にも大乗の経と言われ、主張する思想は「治生産業ことごとく仏法にあらざるなし、この現実生活の上に刻々、真、善、美、の理想を刻み出して行く」という教理と実行とを説いたものであります。維摩、勝鬘の二経は、一は老熟の男性の口を藉かり、一は妙齢婦人の言葉を藉りて、勇敢なる生活の理想化を獅子吼ししくさしている経であります。以上三つの経はいずれも仏教を遠きもの、離れたものとせずして、私たち日常生活の上に効果を見出さしむることに重点を置く経であります。
宗教というと、理想を未来の遠方に置き、現実生活の煩わしさを避け、独り行い澄まして法悦エクスタシーに入るもののように思い做なされやすくあります。また、そうすることこそ、高尚幽雅な宗教のように取られやすいのであります。が、しかし、それは仏教で言う小乗的の教義であります。かかる宗教は案外容易たやすいのであります。
多少欲を殺し逃避的の性質のあるものには誰でも出来るのであります。これと反対に、紛雑極まりない現実の真直中に分け入り無私と慈悲を行い、和恭勤勉を保って行くという、積極的な現実浄化の仕事こそ、難事中の難事であります。幸いにしてわが民族精神には、生に対する逞しい健康な気力がもとより備わっており、虚を去って実を採る、真実の理想家の風格があるので、進んでこの大乗の真理を歓迎し文化発展の動力に使ったのであります。
強い腕の人にして強い槌は揮えます。世の中には、いろいろの宗教や哲学や思想がありまして、随分紆余曲折していますが、結局最後は、現実そのものを理想化するというところに落付かねばならぬものでしょう。わが日本民族は、とうの昔からこの現実の理想化を徹見し、着々生活上に運用を図って来ました。これを以て観るに日本民族は、よほど明敏にして実力に自信ある国民であることが判ります。
こういう優秀な素質を有する民族ではありますが、その素質を磨かせ、長所を発達せしめた道程は、幾多の先覚者の指導啓発に拠よるのであります。特に仏教における先覚者の指導啓発ぶりは、全く仏教をわが民族性に適切妥当ならしめ、その滋養分吸収を容易ならしめたるのみならず、仏教を以て、民族の偉大なる成長発展に正しき歩幅を与えて来たのであります。そこに日本民族の創造した日本仏教があるのであります。そこに他国の仏教との相違点があるのであります。
聖徳太子の大陸仏教に捉われない独特の御卓見は、上述の三経の註釈書すなわち御疏の中にも拝せられるのでありますが、太子御摂政中の施設において、より多く歴々として現れておるのであります。憲法十七条の御制定といい、支那文化の輸入といい、貧民救恤の設備といい、その他、時代に応じ民情に応じて、与えられたる万般の御処置は、専ら国民生活向上の手段でありまして、まさしく現実上に理想を開顕する大乗至極の極則に違いありませんが、かくも明晰に、かくも実際的な仏教の生活化は、太子の御達識にしてはじめて可能となるものでありまして、以後歴代の仏教家が、太子の御事蹟を以て日本仏教の師教と仰ぎ奉るのであります。
民族精神の暢達、国民生活の向上、現実の理想化、自利と利他の一致、この四点は全く日本仏教独特の眼目でありまして、時代を代え、形式は更あらためても、日本に生れ行われる仏教ならばこの眼目を失うことはないのであります。以下、実例に就いてすこし述べてみましょう。
奈良の大仏が建立された聖武朝を中心にするいわゆる奈良朝時代であります。この時代に行われた仏教宗派は、主に華厳宗、律宗であります。
青丹よし寧楽ならの都は咲く花の
にほふがごとくいま盛りなり
奈良七重七堂伽藍八重ざくら
前の和歌は当時を詠んだ古歌であります。後の俳句は徳川時代の俳人芭蕉の詩眼に映じた奈良の面影であります。どちらにしても、当時仏教文化の絢爛成熟した有様が覗われます。そしてこの絢爛さは、また華厳教義の華やかさでもありました。
しかし、その華やかな文化の中にも、宮廷はじめ朝臣たちは、仁王経、金光明経、薬師経等を諸僧に講誦せしめ、また諸国にその普及を努められております。
一体、これらの経は、直接個人の幸福に関係するというよりは、むしろ天下国家の安寧福利に関係ある経であります。非常に教義の範囲の大きい経であります。それらを講誦せしめ、また諸国へ普及せしめられたということは、やはり仏教をして国民生活の現実全体に資するところあらしめようとした日本仏教の精神からであります。国の禍福は国民の禍福、国民の禍福は国の禍福、この現実の理を明らかに知れるところの精神の発露であります。仏教を飾り物にして置かない証拠であります。
次に平安朝に興った二大新仏教は、伝教大師の日本天台、弘法大師の真言密教であります。いずれもまた、日本民族創造の大乗精神に立つものであります。
伝教大師が支那へ留学して持ち帰られた仏教は、支那天台宗の外に禅宗、密教、律宗もありました。これらの四宗の長所を摂とり、比叡山を開いて日本天台を創はじめられたのですが、大師の独創として日本天台の宗義の中心となるものは、大乗円頓戒というものであります。人々は無私な心と、慈悲の情と、不撓の志とを持って日々の現実生活を営んで行く、それが仏教である。但し、それらの心構えは覚悟はしていても、人間とかく忘れがちである。そこで一つの印象的な形式すなわち大乗円頓戒の儀式というものを作り、その形式を踏ましめることによって、永く忘れないようにさせられたのであります。ちょうど私たち学校の入学式のとき、あの厳かな儀式を受け、子供ごころにその学校の生徒である光栄と責任とを感じ出すように、大師は比叡山その他にこの大乗円頓戒の儀式場を設けられ、感銘に価するような人格のある聖僧等をして儀式を司らしめ、人々に永く無私、慈悲、不撓の三徳を心に持ち伝えるよう、仏陀の名において訓戒を与え、再び人々を現実生活へ送り帰すのであります。かくして再び日々の営みに就くという現実浄化の妙案であります。これは治生産業をそのまま仏教の修業とする法華経思想を、時代に応じて安易に体得しやすくしたものであります。また聖徳太子の御趣旨の敷衍に外なりません。そして伝教大師は、この戒壇には日本国民残らず全部を登壇授戒せしめて、一挙に民族精神の作興を企図されたのですが、南都の旧套仏教家の妨害に遭あって、生前にはその官許を得られませんでしたが、死後、比叡山にこの授戒は行われたのであります。これによっても大師の国民道徳に心血を注がれた日本仏教家としての特色およびスケールの大きさは充分覗うことが出来ると思います。
伝教大師と対立的に時代の仏教を開創せられた弘法大師も、国民の現実生活に留意せられたことは同じであります。伝教大師の円頓戒に当るものは、弘法大師に在っては灌頂かんじょうでありまして、この儀式を通して人々に人格完成の希望を喚起せしめ、かつ自覚に便利な宗教的な合言葉を与えて口に唱えしめ、以て現実生活に就かしめるのであります。しかし弘法大師における灌頂は、伝教大師における戒壇ほど主力なものではなくて、弘法大師の得意とするところは、あらゆる真、善、美、の形式をまず人々に与えて、理想の匂いを感覚より浸み込ませ、現実に含める理想の価値をところを換えず即座に見出させようとする教法であります。このために、あらゆる善美な宗教的儀式軌則はもとより、芸術をも採用されたのであります。これ最も高遠なる理想を最も現世的のものに見出す大師一流の仏教哲学の帰結の方法であります。
大師が四通八達の文化的の智才を以て庶民生活の実地の便利を図られたことは、俗に弘法温泉ゆとか、弘法薯いもとか言われるものの名に残っていることによっても徴されます。その名のものが、事実、大師に関係がなかったとしても他に沢山、大師が庶民の生活に工夫を与えられたことの反響として考えられるのであります。
平安末期より鎌倉時代にかけて法然、親鸞、日蓮、道元の諸宗祖によって、新興仏教が時代に応じて興りました。
日蓮上人の宗教が、法華経をいよいよ時代化し、人々題目を口に唱えつつ現実生活に営むところに全仏教精神は活きるとしましたその簡易化、民衆化、生活化は、誰もよく知るところであります。しかし、浄土教系統の法然上人、親鸞聖人の宗教、および山中独棲の道元禅師の宗教にもこの民族精神の暢達、現実生活の理想化という大乗精神が強く含まれているのであります。
親鸞聖人の教義は、まず安心立命を得るのであります。そして、あとは私たち民族それ自体の持つ逞しき現実の生活力に任せて、自由に発達を遂げさせて行くのであります。この際、迷いの心ぐらい現実の生活力をくさらせるものはありません。そこで、この迷いを取り去るために、宇宙の人生が備えている人間発覚の力を信亨しんきょうするのであります。
「能く一念喜愛の心を発すれば、
煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」
とあります。
また道元禅師が、越前の山中、永平寺に籠られた目的は、いわゆる一個半個の道人を打得して(一人半人の理想的人格者を作り上げて)、将来、国民に呼びかけさす手段のためでありまして、それ故にこそ、自分は手を洗う一杓の水も半杓しか使わず、半杓は元へ帰してその功徳を後嗣者に譲り与えるというような譬喩ひゆを以て用意のほどを示されております。しかも永平寺で道元禅師が授けられた教育方針および書き遺された主張によりますと、「人間は真理に対する眼を明らかにするのみならず、必ずこれを生活上に実現して以て理想を具体化しなければいけない」と説いておられます。この点で禅師の宗風は、生活の正しさに極力注意を払い、「生活即仏法」を要諦としておられます。またそれによって日本民族生活の浄化向上を望まれたのであります。
以上、述べましたように、日本の仏教は必ず民族精神の暢達を図り、現実生活を価値化するところに重心があります。誠に日本仏教は、生に対して逞しく健康な心力を有する日本民族にとって、如何にも相応ふさわしい心使いを持つ宗教であります。
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跋
宗教で最後のものは体験であります。「信」の中身――そこに自ずから開かれる智慧の光を湛えつつ――は人に伝えるべく、あまりに微妙幽邃ゆうすいを極めております。光の中に泳ぐ光とでも申しましょうか。実は眼に障さえる何物もないのであります。骨の中の髄漿と申しましょうか、明瑩々めいえいえい、玲瓏そのものであります。
けれども、いざとなると驚くべき威力を揮います。私たち電気風呂に入ったとき、中に居るときは何ともありませんが、出しな入りしなにはぴりぴり感じます。そのように、もし「信」の力に触れたものは、驚天動地の働きを演じます。紫外線、X光線、随分強い電気があります。「信」の力の電気はそんなものではありません。
めいめいその体験を味われるまでが仏教の説明によって導かれます。それならば仏教の説明は中身のない殻であるか。そんなことはありません。一人の「信」を持った人間のする説明は全部、「信」の力の現れであります。仏陀の電気の火花であります。私は、この火花によってあらゆる説明の仕方をして見ました。
(以上でかの子の佛教説法を終わりますが、彼女の本物の仏教理解に驚かされました。何処でこういう本物の佛教を探り当てたのかを知りたいと思っています。それはそれとして「日本の仏教は必ず民族精神の暢達を図り、現実生活を価値化するところに重心があります。誠に日本仏教は、生に対して逞しく健康な心力を有する日本民族にとって、如何にも相応ふさわしい心使いを持つ宗教であります」のくだりは我が意を得たりの感がします。そして最後に「宗教で最後のものは体験であります」と言い切っています。ここにこそ本物の仏教徒であることがでています。なんども読み返して拳拳服膺したいものです。)