第七三課 仏陀
宇宙には自ずから真理が備わっております。この真理は、始めもなく終りもなく、行き亘らぬ隈もなく、歴々堂々として万物を支え、万物を活かし、万物をそのものであらしめておる当体であります。空を見れば日月星群は時を間違えず天体が運行し、地を見れば山河草木、いちいちその趣を尽しております。そういう大きなものばかりかと言うと、蟋蟀こおろぎの髭の尖さきに生命用心の機能はたらきを揮わしめ、苔の花一つに種の繁殖の仕組みを籠めさしてあります。それは自然力だというかも知れません。しかし自然力は、もう真理が形に現れた一部に過ぎません。真理当体そのものというものは、もっともっと奥に在って宇宙活機の根元を掴み、不生不滅、不増不減、霊々昭々れいれいしょうしょうとして湛えております。自然力は場合によっては起滅盛衰の過程を現します。しかし真理は、それを司りつつ、それに伴うことなく、真、善、美、至極の中道を守って行きます。
これを意志としてみれば、宇宙の大意志です。これを感情としてみれば宇宙の大感情です。いまこれを一つの理法としてみるゆえに真理と呼びました。しかし、いずれも一面の表現に過ぎません。要するに宇宙を一肉体とすれば、その中に籠められていて、宇宙を無限無窮に健かならしめて行く絶対に逞しい魂です。永劫生き抜く生命です。
この理法の天地に行き亘らぬ隈もない様子を、光あまねき太陽に譬えて大日如来と言い、その寿命の無限なところを名に取って、これを無量寿仏むりょうじゅぶつなどと言いますが、実体の長と大と量とを説明すべくあまりに果はかなき名であります。しかし人間の言葉としてはこれ以上表現のしようもないので、かの生命をこの種の名で呼び、ひとまず納得することにしてあります。理法として存在する仏陀であるが故に、これを「法身ほっしんの仏陀ぶっだ」と言います。
私たちが、もし仮りに、この宇宙の生命を全部受け容れて、その生命の持っている智、情、意、を働かすことが出来るとしたならば、どうでありましょう。宇宙にそれ以上のものがないのでありますから、至真、至善、至美に達した人格者でありましょう。知識として宇宙間に通ぜざるものなく、感情として宇宙間に届かないものはなく、意志として宇宙間に徹底しないものはない、こうなったら人格者として最も完全に達したばかりでなく、人間としても至幸至福の境涯でありましょう。また、そういう人が一人でも世間に多くなれば、智慧に溢れ、慈悲に溢れ正義に溢れる世の中になりますから、万人の幸福でもありましょう。これを常寂光土とも極楽とも言います。けれども悲しいかな私たちは、その宇宙生命のほんの一部しか覗けません。一部というのは愚か、針で突いた穴よりの光ぐらいしか覗けません。その理由わけは私たちの心を覆っている迷妄の雲のためだとしてあります。しかし、全然縁が切れていない証拠は、私たち多少、物事に対して智慧を働かせます。情けを催します。邪悪を嫌います。これこそ、かの生命の光が私たちの胸の窓にさした月影であります。
さて、今から二千五百年の昔、中印度、迦毘羅かぴら城に、釈迦族の王子として生れ、現実の悲哀を観じ、二十九歳にして出家せられ、六年苦行、三十五歳にして道を得られ、四十五年間説法の後、八十にして入滅せられた釈尊も、仏陀と称するのであります。
仏陀とは梵語(Buddha)の音を漢字に当てはめたもので、覚者かくしゃという意味であります。何を覚ったのかと言うと、先程述べましたように、「宇宙には自ずからなる真理が存在していて、それはとてもよいものだ。人間が人世行路の力として仰ぐのは、これに限る」と覚られたのであります。それから、「この真理は天地間に充ち満ちているのだから、誰でも覚られそうなものだが、人間の心中に迷妄の情こころがある。それが妨げていて覚れないのだ。よし一つ、それを拭き払う方法を教えてやろう。そしてみんなも自分と同じような幸福者にしてやろう」。こうも覚られたのであります。つまり、自分が覚り、人をも覚らせようとする、そこで覚者であります。仏陀という名には是非ともこの二義が籠ります。自覚と覚他――。前に述べました宇宙生命の真理すなわち「法身の仏陀」に、この自覚と覚他のあることは言わずもがなであります。
ところで、釈尊は人間として生れ、人間の寿命を限りに死なれた仏陀ですから、宇宙生命を呼ぶ名の仏陀(詳しくは法身の仏陀)とは、性質が違います。そこで、これを「応身おうじんの仏陀」と言います。応身とは、人間に相応して生れ、人々を教化せられる仏陀ということでありまして、人間に相応ずる以上、人間の肉体を持ち、人間の喜怒哀楽を備え、お腹も減り、病気もされる仏陀であります。しかし、外囲まわりの器物うつわものはそのように人間どおりでありますが、中身は宇宙生命の真理を湛えられ、永劫不滅の体験に立たれていました。この生き死にする人間の精神肉体が、そのまま永遠不滅の生命を運んで行く一丁場である。こういう覚りに釈尊は立っておられました。こうなって見ると、宇宙の生命と人間釈尊の生命とを二つに離すことは出来ません。法身の仏陀と応身の仏陀とは、一つであることを発見いたします。つまり、人間の仏陀(釈尊)の自覚の上に、宇宙生命の仏陀(法身)の一致を、はじめて私たちに示されたのであります。仏教はここに始まり、釈尊が仏教の開祖であるという意味もここから出るのであります。
経典を読みますと、釈尊が説法せられるのに「仏陀はかく言われる」「仏陀はかく説かれる」といった言葉ぶりが沢山出て来ます。私がもし「かの子はかく言われる」「かの子はかく説かれる」と自分で言ったらおかしなものでありましょう。そのおかしなことを釈尊は平気で言っておられるのであります。これは釈尊が、応身の仏陀の位置から、法身の仏陀の説法を取次がれるところから、こういう第二人称の敬語を用いられるので、自覚された仏陀が、いかに自身とは言え、その自覚を尊ばれ敬重の念を払われたところに何とも言えない奥床しさを感ずるのであります。
さて、世の中には、法身と応身との仏陀があり、自覚した釈尊においては、この二つのものが一つになっていることが判りました。ところで、やや後世になって、いろいろ仏教学者が出まして、釈尊はどうして有限の人間として、かの永遠の生命を捉えられたのだろう。言い換えれば、如何にして応身と法身とを一致させたか。この問題の研究が盛んに起りました。釈尊自身は、そのことについてはあまり説法中に述べておられない。ただ自覚の上より、みんなにやりよさそうな教法だけを述べられまして、それをやりさえすれば自然と両者一致の心境に達するようになるのだとしておられます。あまりに実行的、生活的な教えにくだけ過ぎています。万事に理論的、哲学的になった後の時代の仏教学者は、それでは満足出来ません。そこでいろいろ研究の末、大体こういうことになりました。
「釈尊が、宇宙の生命を捉えた道具は智慧である。だが、智慧によって宇宙の生命の当体を直接に捉えたのではない。宇宙生命の当体というものは、人間有限の脳力で捉えられるような小さなものではない。絶対無限のものである。だが私たち人間には、元来もとから精神肉体中に仏性というものが織り込まれていて、それこそ、宇宙生命と連絡を取っているものである。釈尊は、その智慧によって、自身の中の仏性の口を開かれたのだ。すると、水門口を開けば堀の水と川の水とが自然に連絡するように、法身と応身とは一つになれるのだ。それでは、宇宙の生命なぞという途方もないものを目標めあてにしないで、手近かの智慧というものを研究してみよう。ちょうど研究には手頃のものでもある」
学者達は大体こういう方針を立てまして研究して行きました。
ところが面白いことは、智慧にも幾とおりもありまして、普通世間を渡るような智慧もありますれば、物事を解剖して行って因、縁、果から成り立つ仮りの結びが宇宙万物の姿であり、その実体は「空」(因縁果によって変化し行く自由性)であると見破ったような哲学的の智慧もあります。だが、突き詰めて行って、最後に人間自身内の仏性を開くような智慧になって来ると、もはや、人間自身の智慧とも、宇宙生命から人間を開覚せしめんために四六時中つねに、作用モーションを人間に働きかけている智慧とも、区別がつかなくなります。そして開く智慧も、開かれる仏性も、またそれへ注ぎ込まれんとする宇宙生命も、一つになってしまいます。その境地は少くとも智慧を磨いた効果によって報いられた一つの世界だから、これを報土と言い、人格的に見て報身ほうじんと言います。
もっともこの報身は、智慧のみでなく、他の修業の力でも到着されることになっていますが、説明が複雑になりますから、智慧の方向からの筋道だけ述べることに致しました。要するに、後世の仏教学者は、「応身の釈尊が法身を得られたのは、報身の仲介によって得られたのだ。そして報身というものは修業の力による」。こういう結論を得ました。
これを譬えで申しますと、ここに大学教授という位置があります。これを法身といたします。Aさんという人があります。これを応身といたします。いま、Aさんは学力によって教授になれました。Aさんが教授に価する学力、それは勉強の力によって得たのですから報身に当ります。
教授の位置、Aさん、Aさんの学力、この三つのものは別々に数え立てれば数え立てられるようなものの、事実は一人のAさんに備わっているのであります。そのごとく、法身ほっしん、応身おうじん、報身ほうじんの三つは、一釈尊に備わっていたのでした。
釈尊が仏教開教以来、今日まで二千五百年間、その間に数え切れぬほど覚者が出ておられます。いずれも三身を一身に備えた仏陀であります。しかし、開祖の釈尊に対し遠慮して仏陀とは言いません、諸祖と言っております。いわゆる、各宗各派を開宗した名僧知識および、その他散在する諸美徳たちです。おのおの応身として人間の個性を備えながら、修業の力で得た報身、そこに導き取られた法身を備えておられます。いずれも苦心惨憺の結果になる導きの教えを遺のこされております。
また、釈尊以来、幾多の聖者によって発見された仏菩薩が、この天地間に働いております。眼に見えないからないというわけのものではありません。途中が眼に見えないからないというなら、ラジオの電波は役に立たないはずです。この仏菩薩は、やはりいずれも修業の力によって仏菩薩になられ、人間を救うための特殊の誓願を持っていて、私たちに四六時中働きかけております。
前の諸祖と合せて一口に、諸仏諸祖と言いまして、その修業の功徳も、積んだ智慧も、容易たやすく私たちに遺産としてくれているのであります。
なお、附け加えて言わねばならんことは、しかも一番大事なことは、私たちいずれもが、法報応の三身を備えた仏陀であることです、覚者であることです。もし、そういっては早過ぎると言うのなら、私たちはこれから成る仏陀であります、覚者であります。その資格は充分与えられているのであります。私たちに対して諸仏諸祖は先輩であるに過ぎません。そればかりでなく、これらの諸仏諸祖は、私たちが仏陀覚者に成り終らない限り、休むことが出来ないのであります。働きの手を休めるわけには行かないのであります。
宇宙を、種子が仕込んである未製品の仏陀と見て、もしその中の一部分でも、迷妄の分子が残っていたら、宇宙全体の連帯責任上から諸仏諸祖も遺憾なき安心立命は得られないのであります。その意味から早く人格完成を遂げて覚者になることは諸仏諸祖を救けることにもなるのであります。