今朝は体が瞑想体質になっているような気がしていました。その為か新しい発見がありました。
いつものように理趣法を修していて、四無量観(慈・悲・喜・捨の瞑想)のところにくるといままでは四つの瞑想をそれぞれ別に観想していたのですがそれはじつは一つのものであると感じたのです。
つまり、
「慈」の瞑想で、「生きとしいけるものが幸せでありますように」、
「悲」のところでは「生きとしいけるものに苦しみがありませんように」、
「喜」では「生きとしいけるものの願いが叶えられますように」、
「捨」では「すべての生きとしいけるものが悟れますように」
とそれぞれの印明とともに観想するのですが、
これらは結局同じことを観想しているにすぎないと感じた次第です。
つまり悟れば苦もなくなり、願いも叶うようになるということです。当然「悟り」という世界は厳然としてあります。
そして僧侶の役目は少しでも悟りに近ずいた姿を皆さんに対して実証してみせることではないかとも思いました。大変な役目です。
いつものように理趣法を修していて、四無量観(慈・悲・喜・捨の瞑想)のところにくるといままでは四つの瞑想をそれぞれ別に観想していたのですがそれはじつは一つのものであると感じたのです。
つまり、
「慈」の瞑想で、「生きとしいけるものが幸せでありますように」、
「悲」のところでは「生きとしいけるものに苦しみがありませんように」、
「喜」では「生きとしいけるものの願いが叶えられますように」、
「捨」では「すべての生きとしいけるものが悟れますように」
とそれぞれの印明とともに観想するのですが、
これらは結局同じことを観想しているにすぎないと感じた次第です。
つまり悟れば苦もなくなり、願いも叶うようになるということです。当然「悟り」という世界は厳然としてあります。
そして僧侶の役目は少しでも悟りに近ずいた姿を皆さんに対して実証してみせることではないかとも思いました。大変な役目です。