先日縁あって松戸で弁栄上人開祖で光明主義の道場となっているという「善光寺」の前を通りました。不思議なご縁でした。「・・拝む如来は大きくとも、小さくとも、絶対(宇宙精神)より現れて下さるのであるから、絶対に信頼すべきである。地球でさえ、如来に救われるという位、宗教は大きいものである。地球のできた初めから終りまでに、幾万の人が成仏したかによって、地球の成績が決められるのである。(弁栄尊者)」さっき気が . . . 本文を読む
今日2月18日は深草の元政上人の命日です。元政上人は江戸前期の日蓮宗の僧。生年は元和9.2.23(1623.3.23)、没年は寛文8.2.18(1668.3.30)です。京都深草瑞光寺の開山。彦根藩主井伊直孝に近侍していたが19歳で病を得て出家の三願(「一に出家。二に父母に孝養。三に天台三大部読了」)をたて26歳のとき,致仕して妙顕寺日豊の門に入り後、深草に称心庵(のち瑞光寺)を結び,ここを拠点に . . . 本文を読む
日本往生極楽記(慶滋保胤)「東大寺戒壇和上律師明祐、一生持斎全く、戒律を護す。毎夜叅堂して房舎に宿せず。命終に及んで念仏して休せず。天徳五年二月十八日入滅す。先、一両日頗る悩気あり。飲食例ならず。弟子曰く「終日食せず。粥を勧めんが如何」。師曰く「斎時已に過ぐ。命終又近し。何ぞ破るべきや」。重ねて命じて曰く「二月は寺例所修の仏事あり。我なまじひに生きて之を過さんや」。十七日の夕、弟子等、阿弥陀経を誦 . . . 本文を読む
日本往生極楽記(慶滋保胤)「東大寺戒壇和上律師明祐、一生持斎全く、戒律を護す。毎夜叅堂して房舎に宿せず。命終に及んで念仏して休せず。天徳五年二月十八日入滅す。先、一両日頗る悩気あり。飲食例ならず。弟子曰く「終日食せず。粥を勧めんが如何」。師曰く「斎時已に過ぐ。命終又近し。何ぞ破るべきや」。重ねて命じて曰く「二月は寺例所修の仏事あり。我なまじひに生きて之を過さんや」。十七日の夕、弟子等、阿弥陀経を誦 . . . 本文を読む
万葉代匠記(契沖)
「・・いろはを弘法大師の製作なりといふ事は、世にあまねくいひつたふるうへに、日本紀疏云(日本書紀纂疏 ・一条兼良著)「問、我応神時漢言東漸、倭字則起干弘法大師空海、故上古未有文字云々」。これ書に見えたる証なり。又、伝法院覚鑁上人の釈をあつめたる密厳諸秘釈の中に、「伊呂波略釈」あり。祖師の作とてこそ上人は釈せられけめ。又拾遺愚草にも後京極殿の仰せにて或る夜の時の . . . 本文を読む
Q,修行する前は凡夫はすべて執着心をもっている、執着心をもっていると魔が入るというなら凡夫は仏道を成ずることはできないことになるが如何?A,修行中に執着心が起こっても「一切衆生のために悟りを開こう」と強く思えば魔も家来になる。夢中問答集(無窓疎石)より・・・問、僧俗いずれも凡夫であるとき、だれも有所得(執着)心を離れたることなし。もしこの有所得(執着)を以て修行すること皆な魔業となるならば凡夫の修 . . . 本文を読む
祈年祭は、毎年2月17日に行われる宮中祭祀の小祭で、その年の五穀豊穣などを祈る。
ウキぺデアには「本来は民衆が行う田の神への予祝祭であったが[2]、中国の大祀祈殻の要素を取り入れ、律令国家祭祀として成立した。7世紀後半の天武天皇の時代には既に記録があり、延喜式神名帳記載の全神社(3132座)が祈願の対象であった。・・第二次世界大戦後に日本の国家神道が解体されると、祈年祭から国家的祭祀 . . . 本文を読む
『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日に聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出されています。聖武天皇の時代、八世紀前半も対外関係が緊迫していました。渤海と唐・新羅が対立関係にある中、渤海が山東半島の海上交通路を制圧したり日本に接近策をとったことで唐、新羅が日本を攻めるのではないかとおそれられていました。「国分寺建立の詔」です。「朕、薄徳を以って忝くも重き任を承たまはる。政化弘まらず・ . . . 本文を読む
今日は出雲の国から疫病で人々が困窮しているので仁王般若経を講演してほしいと要望があった日
三代実録 / 貞観七年(865)二月十三日乙丑条
「十三日乙丑 ・・ 出雲国言く、 『衰弊年久し、 黎元(人民)凋残し 疫癘数しばしば発し 稼穡(作物)登らず。 護国安民は般若の力、 攘災招福は経王 . . . 本文を読む
今日2月13日は荒尾市・四山神社虚空蔵祭りです。以下四山神社ホームページ等です。「四山神社は「虚空蔵菩薩」が降臨された場所として、初めてお堂が建立されたのは1070年と伝えられ、1600年代初頭に当時の肥後藩主・加藤清正によって再建。社殿内に、虚空蔵菩薩が舞い降りた伝説を持つ四ツ山古墳あり。春と秋の2回催される大祭では、参拝者がお賽銭の5円を受け取り、次の大祭で倍にして返す「福授け」という珍しい風 . . . 本文を読む
弘仁十三年(822)二月十一日は、大師が東大寺に灌頂道場を建立された日です。高野大師伝に「弘仁十三年二月十一日、下官符於治部省偁「去年冬雷。恐有疫水。空海法師に宣せられ東大寺において国家の為に灌頂道場を建立すせしむ。夏中及び三長斎月、息災増益法を修し以て鎮護国家と為す」 . . . 本文を読む
今日二月十一日は大師が大宰府に住し、大宰少弐田中氏の先妣の周忌斎を行いその願文を起草された日です。「田少弐が先妣の忌斎を設くる為の願文 一首」 「恭んで惟れば身体を陶冶するは二親の恩重し、岳瀆を酬報せんこと仏にあらざれば誰にか帰せん。沒駄の力もって為さざるところなし。これを憑み、これを仰げば怨親なおし子のごとし。神通縁あり、悲願極りなし。利楽抜済の倦むこと憚らず。汪汪たる徳、言絶え、思断えたり。/ . . . 本文を読む
今日は隋心院流祖増俊の遷化された日です。以下密教辞典等によります。増俊は応徳元年1084から長寛3年、永万元年1165、2月11日。堀川中納言国俊の息。幼時に出家し厳覚に勧修寺勝福院で伝法灌頂を受けその法統をついで住坊随心院に一流を立てた。門下に顕厳・禅念。 . . . 本文を読む