Q,修行する前は凡夫はすべて執着心をもっている、執着心をもっていると魔が入るというなら凡夫は仏道を成ずることはできないことになるが如何?
A,修行中に執着心が起こっても「一切衆生のために悟りを開こう」と強く思えば魔も家来になる。
夢中問答集(無窓疎石)より・・・
問、僧俗いずれも凡夫であるとき、だれも有所得(執着)心を離れたることなし。もしこの有所得(執着)を以て修行すること皆な魔業となるならば凡夫の修行は仏道を成ずることはあらむや。
答、仏法の内は諸宗異なりと雖ももし有所得の心に住して行徳に誇る人は(執着心を以て行の成果を誇る人は)魔道に入ること遁れ難し。(しかし)仏道を棄てて行ぜずんば、魔道に入るまでもなくして直に三悪道に堕すべし。(魔道が怖いからと言って仏道にそもそも入らなければ直接地獄餓鬼畜生に入ることになる。)魔道にはいることは仏道の科にはあらず。道徳に誇り慢心を起こす故哉。いまだ聖位に登らざる人は(覚ってない人は)だれか有所得の心なからむや。たとひ有所得の心は起こるともかやうの心は皆魔業なりとしりてこれを堅執せず、或はこれを以て足れりとせず、退屈の心を生ぜず、いよいよ修行の功を積まば本分の霊光忽ちに現前し無辺の徳用(徳)自ら成就すべし。ただ一身の迷倒を翻すのみならず、一切衆生を引導する広大の利益を致すべし。もしよくかくのごとくならば一切の天魔外道も亦、同じく伴侶となりて仏事の障碍あるべからず。維摩居士の「一切衆魔および諸外道、みな吾侍なりと説きたまへるは、この義なり。(維摩経、文殊師利問疾品第五に「・・また問う、『諸仏の解脱は、まさに何に於いて求むべし。』答えて曰く、『まさに一切の衆生の心行(心の働き)の中に於いて求むべし(諸仏の解脱は衆生の心の働きにある)なることをいう)。また仁(なんじ)の問う所の、『何ぞ侍者(侍る者がいないのか)無きや』とは、一切の衆魔、および諸の外道、皆、吾が侍なり。所以は何となれば、衆魔は生死を楽い、菩薩は生死に於いて、しかも捨てず。外道は諸見を楽い、菩薩は諸見に於いて、しかも動ぜず。(菩薩は邪見・生死の中においても逃げようとしないから、魔も家来になる)』」
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